文字を持たなかった昭和330 梅干し(2)梅の実の収穫

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 かなり長い間スイカ栽培について述べてきたが、農作業(仕事)から離れて梅干し作りを書くことにし、前項ではまず庭にある2本の梅の木について述べた。

 梅干しに漬ける梅の実は、古いほうの木から取る。二三四(わたし)は記憶が曖昧だが、庭の奥まったところにある若いほうの木は、漬けるのに十分量の実をつけるほど育っていなかったのかもしれない。

 梅雨が間近になると梅の実は膨らみ、気の早いものは黄色く熟して枝から落ちて来る。これが梅の実を取るサインだ。梅雨に入っていればその合間、数日雨が降っていない頃合いを見計らって、梅の実を「落す」。雨が振っていたり地面が濡れていたりすると作業がしづらいからだ。

 ミヨ子が先頭に立って物干し竿を手にし、梅の枝を叩いていく。叩く行為がおもしろいのか、ふだんは家事の手伝いなどしない長男の和明(兄)も、この作業には加わることが多かった。手が空いていれば夫の二夫(父)も加わった。

 姑のハル(祖母)は、叩かれて落ちた梅の実を拾う役目だ。二三四も、ハルをまねしながら梅の実を拾ってはザルに入れた。

 梅の木は庭の真中にぽつんと立っているわけではなく、庭を挟んで母屋の向かいにある畑にあった。木の周りの一部は畑の通路だが草が生えており、ほかの場所も別の木が植わってたり作物が育っていたりする。そのため「拾う」といっても簡単ではない。庭へ伸びたほうの枝からなら実は庭へ落ちてくれるし、畑の土の上に落ちたならまだ探せるが、木の根元や草の陰などになると、できる限りは探しても諦めることがときどきあった。

 それに、草が生い茂った木の下には蛇がいることもあり、そういう場所での「捜索」が二三四には苦手だった。一方、東京に奉公で出ていたときに関東大震災に遭ったという明治生まれのハルはちょっとしたことでは動じない。もともとだいぶ曲ってしまった腰をさらに屈めて、ていねいに梅の実を拾って回った。

 そうやって落し、拾った梅の実は、いったいどのくらいの量になったのか。具体的な重さを量ったことはなかったが、3世代6人が一年間食べ、ときにお茶請けに出してもお釣りがくるぐらい十分な量の梅の実が「収穫」されたことは間違いない。いまと違って副食が豊富ではなかった時代、梅干しは常に食卓にあり、3食の合間に摘まんだりもしたのだから、相当量の梅を消費していたはずだ。

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