文字を持たなかった昭和336 梅干し(8)土用干し①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは保存食品として毎年手作りしていた梅干しをテーマに、庭の梅の木から落とした実下漬けし、その間に用意した赤紫蘇を下漬け後の梅の実に加えて本格的に漬け込むところまで書いた。

 姑のハル(祖母)の代から何十年も使っている梅干し用の甕は、梅雨の間台所の隅で梅に赤い梅酢を浸透させ続けた。

 南国の梅雨は、他の地域より早く始まる分早く明ける。子供たちが夏休みの到来に指を降り始める頃、だいたい7月の10日前後には太陽が連日照りつけるようになる。ミヨ子は農作業と天気予報の加減を考えながら、ここぞという3日間を選び、梅の実を干した。

 この作業は土用の頃に行われるので「土用干し」と呼ばれるが、ミヨ子たち地域の(鹿児島の?)主婦が「土用干し」と言っているのを、二三四(わたし)は聞いたことがない。ただ単に「梅を干す」としか言っていなかった。季節の進み方が少しだけ早いので、必ずしも土用の作業と限らないせいかもしれない。

 でも本項では便宜上「土用干し」とする。

 甕の中、表面に赤紫蘇を被せられて寝かされていた梅の実は十分赤く染まっている。赤紫蘇を取り出してから、「しょけ」*と呼ぶ竹製の丸い平ザルに梅の実をひとつひとつ並べていく。上から順に丁寧に取り出さないと皮を破ってしまうので、ここは気を使った。

 いまなら使い捨てのビニール手袋などを使って、手が汚れることも手の雑菌が梅の実に着くこともないのだろうが、使い捨てビニール手袋はおろかゴム手袋さえまだ使っていなかった時代、赤く染まった梅の実を甕から取り出す作業は基本「素手」だった。

 もちろん手をきれいに洗ってから作業に臨む。梅の実を「しょけ」に並べ終わる頃には、指先も爪も赤みがかった紫色に染まり、紫蘇の香りがぷんぷん漂った。たまに、箸を使って梅の実を摘まむ方法も試みたが、皮をすぐに破ってしまうのでハルはこの方法を好まなかった。

 梅の実を並べるのに直径1メートル近い大きな「しょけ」でも足りず、小ぶりの「しょけ」のほかに「めご」*も駆り出されて、土用干しは始まった。

*鹿児島弁
「しょ」(後ろが高い)ザル。菜笥(さいか)、笊(さいか)、塩受けから転訛等、諸説あり。
「め」(後ろが高い)目籠(めかご)が短縮化されたもの。
《参考》
鹿児島弁ネット辞典

《梅干し作りの主な参考》
自家製 梅干しの作り方 | やまむファーム (ymmfarm.com)

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