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ひとやすみ 着物

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん
(母)の来し方
を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。最近は昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリについて述べていて、ここ数日はつらかった時期の描写が続いたので、ちょっと休んで別のことを書いてみたい。

 梅雨が明けた週末、久しぶりに虫干しをした。この秋に出席予定の婚礼では着物を着ようと思っていて、長らくしまいこんであった着物や帯を風に当てたのだ。

 着物は数枚しか持っていない。ウールのアンサンブル以外では、うんと若い頃に誂えた――正確には、両親が誂えてくれた――ピンクが基調の訪問着とそれに合わせた帯、そして、母が中年を過ぎてから自分用に誂えたものの袖を通すことなく、のちに「形見代わりに」とわたしに譲ってくれた訪問着と帯くらいだ。和箪笥もないので、収納用具を工夫し分散してしまってある。

 「形見代わり」の着物は薄い緑色で、偶然か意図的か、苗字にも入っている植物が柄にあしらわれていてわたしも気に入っている。が、いかんせん着る機会がない。いや、まず着る技術がない。母から譲られて以降、数年前に1回だけ身内の婚礼のとき着たのも、母に見せたいのが半分だった。郷里での婚礼だったから、式場の様子はわからないは、事前に送る必要があるはで、けっこう大変だった。

 でも、母が存命のうちに再び巡ってきた機会なので、がんばってもう一度着てみよう、そして母に写真を見せてあげよう、と思っている。

 訪問着類は、防虫剤とともに和服用の桐箱に入れ――和箪笥の抽斗二つ分くらいの箱だ――、押入れのいちばん高いところに置いておいたから、なんとかカビや虫にもやられていなかった。目立つ染みや汚れもない。

 着物や帯を広げ、室内物干しに架ける。箱は開け放ち、ほかの小物も広げておく。「着物の匂い」としか言いようのない匂いが室内に漂い、風に運ばれていく。実家にいた頃なら、着物を取り出す機会にはまず樟脳の匂いがしたものだ。そもそも防虫剤イコール樟脳だった。

 農作業でいつも忙しくしていた母は、着物を着る機会はめったになかった。それでも「昔の人」だから、着物は自分で着つけられた。子供たちがまだ小さかった昭和40年代なら、入学式はもちろん、授業参観に着物で来るときもあった。結婚式も自分で留袖を着つけて列席した。シーンによって着分けられるくらいの着物と帯は持っていたことになる。夏場は浴衣もよく着ていた。

 着物を着る用事の数日前には、和箪笥から着物を取り出して状態をチェックし、前日にはハンガーではなく「衣文(えもん)かけ」という横棒が長い衣類架けに、着物が吊るされた。当日は、地域の女性たちが「お腰」と呼んでいた裾よけ(腰巻)と肌襦袢を着けたうえに長襦袢を着た母が、腰ひもを器用に操りながら、締め始めた帯を足で跨ぎながら、着つけていた姿が浮かぶ。

 帯はお太鼓に結ぶことが多かっただろうか。全身が映るような鏡はなかったが、母が嫁入り道具で持参した「姿見」は、いまなら古い映画に出て来そうな1面鏡で、鏡を支える部分に化粧品などを入れる抽斗があり、鏡には布製のカバーが架けられていた。大きくはないあの鏡で、帯の仕上がりなどを確認したのだろうか。

 そう言えば、浴衣のようなきわめて簡単な着物以外、着つけも帯結びも、母から教えてもらうことはなかった。若い頃の工場勤め〈165〉で貯めたお金で用意したであろう嫁入り道具の着物は、見るからに古臭い柄だ――と思えた――し、何より1970~80年代、世の中がこぞって欧米、とくにアメリカ文化を追いかける中で青春まっさかり(?)を過ごしていた娘は、着物に興味がなかった。昔は折々に着物を着ていた母も、その頃には生活と農作業で手いっぱいで、虫干ししたり、事前に着物の状態を見たりして着物を手入れして着る習慣を、すっかりなくしていた。

 和箪笥に、たくさんとは言わないまでもそこそこあった母の着物は、後年実家の建屋ごと処分された。ありていに言えば捨てられたということになる。

 残念なことにお金を出さないと着物を着られないわたしだが、「着物の匂い」の中で、若かった頃の母を思い出し、誂えてくれた、あるいは「形見代わり」の着物に、両親の深い気持ちを改めて感じていた。今日び「終活」はある年齢以上の人々の関心事項で、着物の買い取りも盛んだ。そうでなくても無駄(と思える)モノは遠ざけたい人も多い。しまっておくより別の誰かに買ってもらって流通させるほうが社会的には価値を生む行動だろう。

 でも、使わなくなったものでも手元に置いておくというのもまた、ひとつの生き方なのかもしれない。

〈165〉戦後、佐賀の紡績工場で働いていたことは「十九(終戦後)」「二十(紡績工場)」で述べた。

※写真は文中の着物の、身頃の柄。

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