文字を持たなかった昭和 二十(紡績工場)

 母ミヨ子のストーリーから少し外れる。

 戦後ミヨ子が働いていた佐賀の紡績工場に興味を持ったので、ちょっとまとめてみる。就職先の「大和紡績」については「だいわぼうせき」と聞いたはずなのだが、どこかの時点で漢字の読み方がごっちゃになってしまい、長らく「やまとぼうせき」だと思い込んでいた。幸い「大和紡績」「佐賀」で検索した結果、すぐに当時の存在と現在が結びつき、ダイワボウの前身であることを知った。

 繊維産業といえば明治以降重要な輸出産業だったが、大和紡績自体は1941年に生まれた比較的若い会社だ。ただし、錦華紡績、日出紡織、出雲製織、和歌山紡織の4社が合併したもので、創業まで遡ればそれぞれ長い歴史があるようだ。

 ダイワボウのサイトによると、合併に当たっては「4社が心を同じくして共に力を合わせ、仕事や作業に当たり企業の発展を図ることを目指し、聖徳太子の17条憲法第1条冒頭の句「和ヲ以テ貴シト為す」から「大きく和する」の意味を込めて、「大和紡績」と社名が決定し」た、とある。大和紡績は(おそらく合併前の各社が有していた技術やブランドから)いくつもの有力な商品群を抱え、高度経済成長期を経て、総合繊維メーカーへと発展していく。1980年代には海外進出と同時に高付加価値繊維の開発を進め、バブル崩壊以降は、海外事業と並行して繊維技術を応用した機能性素材・製品などを開発していった(※30)。

 大和紡績についてネットで調べていくうち、会社設立時に合併したうちの1社「錦華紡績」は、後の双日へ引き継がれていく鈴木商店が関係した会社であることを知った。鈴木商店は経営の一角に紡績を置いていたが、佐賀の有志が伝統織物「佐賀錦」を生んだ地での紡績工場の立ち上げを企図した際、鈴木商店にも参画を呼びかけた。大正5(1916)年に「佐賀紡績」が誕生、最盛期は佐賀最大の工員を有する規模に発展した。しかし、昭和3(1928)年の鈴木商店の破綻に伴い、佐賀紡績は錦華紡績に買収された。破綻に際して佐賀紡績の鐘紡への売却が交渉されたが、鐘紡として引き受けない代わりに、鐘紡の台湾会社である錦華紡績が買収することで話がついた、という経緯らしい。これにより佐賀紡績は解散、錦華紡績佐賀支店として再出発し、戦後の4社合併へつながっていく。

 合併後、旧佐賀紡績の工場は大和紡績佐賀工場として継続し、昭和20年代の最盛期には2,000人超の従業員を抱え、戦後復興への貢献が高く評価された。だが繊維業界の再編の波を受けて佐賀工場も規模縮小を続け、昭和61(1986)年に閉鎖されている。なお長らく「大和紡績跡地」と呼ばれていた工場跡は、平成7(1995)年「どんどんどんの森」と名称が変わりいまは公園として親しまれているそうだ。(※31)

 ミヨ子が佐賀で働いていたのは、大和紡績の最盛期ということになるだろう。

※30《出典》大和紡績グループの歴史 
※31《出典》紡績|鈴木商店のあゆみ、他

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