文字を持たなかった明治―吉太郎63 飛行機って……
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていたが、二夫は高等小学校のみならず、上級の農芸学校へ進んだ。吉太郎は不服だったが、二夫が新しい技術を学んで来ることは頼もしくもあった。
対中国のみから対米英、蘭へと拡大された戦争の影響は、やがて小さな農村の暮らしにも及んできた。土地があるおかげでとりあえず食べるものには困らない暮らしが続いていたが、昭和19年の後半には、吉太郎が住む小さな農村でも偵察に来たらしい敵機の姿が見られるようになる。鹿児島県内でも大きな市街地などが空襲に見舞われ始めるのは、この年の冬だ。
集落でも敵機が見られるようになった頃。「59 再び、徴兵について」で「この徴兵問題は、思いがけない方向へと展開するのだが、それは後日に譲る」と述べたある事件が起きる。
二夫は一人っ子ということもあり、吉太郎から見れば妻のハル(祖母)がずいぶん甘やかして育てた。けして裕福な家庭ではなく、というより倹約家の吉太郎は家計に現金をほとんど出さなかったので、ハルは家計のやりくりに苦労してきたたが、それでも子だくさんの家からすれば、二夫一人にかけられる手間とお金は各段に多かったはずだ。
二夫は、厳しい吉太郎の手前わがままを言うことはなく、むしろ祖父ほど年が離れ、一代で土地を買い広げてきた父親を敬うと同時に畏れてもおり、その分父と息子のコミュニケーションは多いとは言えなかった。学のない父親に、新しい知識や世間の事情を話しても「乗ってこない」と思ったのかもしれないし、そもそも昭和の父親は――吉太郎はさらに古い明治の人だ――、子供(たち)と親しくおしゃべりしたりはせず、上座にでんと座って家庭内に威光を放つものでもあった。
一人っ子で、ほかのきょうだいに気を使ったり競い合ったりする必要がなく、駆け引きやだまし合いのようなことをほとんど経験せずにすんだ二夫は、基本的に素直だ。しかし吉太郎には言い出せないまま、考えていることがあった。
二夫たちが授業で実習用の田んぼや畑に出ると、ときどき軍用機を見かけることがあった。それが「友軍機」なのか「敵機」なのか、二夫には見分けがつかなかったが、引率の教師が機体の形状や塗装などから区別して教えてくれた。
二夫は飛び去る機体を仰いでは
「飛行機って、きれいなものだなぁ」
と思った。それは後年本人の口から聞いた一言である。
通っていた農芸学校には少年飛行兵の案内が来ていた。