文字を持たなかった明治―吉太郎59 再び、徴兵について

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていたが、勉強がよくできた二夫は高等小学校のみならず、さらに上級の農芸学校へ進んだ。無学で自前の土地を広げることにしか興味がない吉太郎にとっては意に沿わないことだったが、地元の人々が「高等農林」と呼ぶ農芸学校で、二夫が新しい技術を学んで来ることは頼もしくもあった。

 二夫が農芸学校へ進学した昭和17(1942)年がどういう年だったかは、前項でざっと振り返ってみた。この年には 「陸軍防衛召集規則」が公布され、国民皆兵の雰囲気が確かになってきたことにも触れた。

 明治6年(1873)に始まった「徴兵令」により、成人男子は3年間の兵役義務が課せられてはいたが、身体条件により不合格のケースもあったし、合格者も兵力が十分ならば召集されることはなかった。「徴兵令」は昭和2(1927)年の「兵役法」に引き継がれ、細部を改正しながら、一定の年齢範囲の男子が兵役に就くことを規定し続ける一方で、官公立学校の生徒への兵役免除などは続行されていた。

 吉太郎の周囲でも召集される若者がぽつぽつ出始めてはいたが、まだ「根こそぎ」という印象でもなく、まずは各戸の二男以下、それも若い青年といった、いかにも戦場で働けそうで、かつ各家庭への影響があまりない(と思われる)人が対象でもあった。

 そもそも吉太郎自身は、対中国の戦争が始まった時点(昭和12年)ですでに57歳、昭和17年には62歳と、まったくの兵役対象外だった(吉太郎への徴兵に関しては「38 徴兵」でも一度述べている)。

 そして、息子の二夫はまだ14歳で、公立の実業学校に通ってもいる。何より一人息子で、二夫を兵隊に取られ戦死されたら「家が絶える」。吉太郎は、「わが家の場合、徴兵については何重にも安全で、誰かが兵隊に行くことなどない」と思っていた。

 ただ、吉太郎には懸念があった。戸籍上の「家」と実生活での「家」には齟齬があったのだ。昭和13(1938)年、一家の戸主であり、吉太郎にとって二番目の兄、戸籍上は三男に当たる庄太郎が亡くなったあと、家督は庄太郎の長男・藤一が相続した〈274〉。甥が戸主を務める「本家」の戸籍において、吉太郎は「叔父」、息子の二夫は「従弟」で、いずれもひとつの「家」の成員の一人に過ぎなかった。

 吉太郎が家庭を成してすでに10数年、三人家族の暮らしは盤石なものであると同時に、吉太郎自身当時としては十分に高齢で、その跡取りの徴兵にはそれなりの配慮が与えられる(であろう)と思われたとしても、最終的な根拠はやはり戸籍である。

 いざ兵隊が足りないとなったとき、家督の相続とは直接関係のない吉太郎たち一家がどのような扱いを受けるのか。おそらく誰も明確な見通しを立てられなかっただろう。

 そしてこの徴兵問題は、思いがけない方向へと展開するのだが、それは後日に譲る。

〈274〉この時の戸主の変更については「51 戸主の変更」で述べた。

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