文字を持たなかった明治―吉太郎38 徴兵

 明治13(1880)年生れの吉太郎(祖父)の物語を続けている。

 農家の五男坊で財産を分けてもらえる当てなどなかった吉太郎は、家も自分で建て(買わ)なければならなかった。そのために出稼ぎにも行ったのではないか、という話をここしばらく続けてきた。結果的には、孫たちとも住んだ大きな家を買ったのだが。

 吉太郎は、出稼ぎに行った期間を除いて郷里の集落やその周辺で農作業をし、機会とお金があれば田畑や山林を少しずつ買い広げた。のちに一人息子の二夫(つぎお。父)が相続する地所があちこちに分散していたのは、「少しずつ買った」ためだろう。

 では、吉太郎は出稼ぎ以外では、郷里の集落にずっと住んでいたのだろうか。

 二三四(わたし)がそのことを考えたのは、明治以降の日本は大きな戦争を3回経験しているからだ。そして、長男ではない吉太郎は、まっさきにとまでいかなくても、比較的容易に徴兵されてもおかしくなかったのではないか、と思ったからだ。

 まず、明治27(1894)年7月から28(1895)年4月にかけての日清戦争。戦争が勃発したとき吉太郎はまだ満で14歳だから、徴兵の可能性はない。

 次に、日清戦争から10年後、明治37(1994)年2月から38(1995)年9月の日露戦争はどうか。吉太郎は20代半ばで兵隊としても「働き盛り」の年ごろに思えるが、日清戦争に従軍したと伝え聞いたことは、二三四にはない。若年人口が多く徴兵対象も多かったのだろうか。そのあたりは、軍事の歴史を勉強しなおすしかない。

 そして日中戦争(支那事変)から太平洋(大東亜)戦争。日中戦争の勃発は昭和12(1937)年で、吉太郎はすでに57歳。戦争末期には40代でも徴兵されたというのはよく知られているが、さすがに50代の徴兵はなかった。そもそもほとんど老年期に入った年齢だ。

 その代わり、というわけではないが、一人息子の二夫はわざわざ志願して兵隊に入るのだが、その話は二夫について語る機会に譲る。

 つまるところ、日本が戦争に明け暮れていた時代に青壮年期を過ごしたにもかかわらず、吉太郎は戦争に行くはなく、戦地で命を落とすようなことにはならなかった、ということになるだろう。

 先の大戦で徴兵が一般化する前は、軍人になれば食事や住居など基本的な生活は保障されたから、進んで軍人になる人もとくに農村出身者は多かった。跡取りでない吉太郎が軍人になる道を選んでいたら、もし戦地で亡くなったりからだを損なうようなことがなかったとしても、その後の人生は大きく変わっていただろう。

 吉太郎が戦地へ赴かなかったおかげでのちに一人息子が生まれ、二三四たち孫が生まれた。度々思うのだが、人生の巡り合わせとはほんとうに不思議なものだ。

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