文字を持たなかった明治―吉太郎61 戦時下の農村

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていたが、二夫は高等小学校のみならず、上級の農芸学校へ進んだ。吉太郎は不服だったが、二夫が新しい技術を学んで来ることは頼もしくもあった。

 戦時下、庶民の暮らしへの統制は厳しくなる一方だったが、もともと裕福でもなく、幼い頃から物質的に豊かな生活を経験したことなどない吉太郎夫婦にとっては、モノがなくても不自由は感じなかった。それは吉太郎たちに限らず、おおかたの農山村、漁村の庶民も同様だったはずだ。明治の前半、吉太郎たちが子供だった頃、電灯がつかないとか何かが買えないとかはむしろふつうのことだった。

 別の言い方をすれば、物資の欠乏によって強く影響を受けたのは都市生活者だった。給与所得とその消費が生活の基本である都市では、戦時下お金自体が意味を持たなくなりつつあった。

 その点、土地さえあれば何かを植えておけて、植えておければいずれは食べるものができる。これこそ、百姓の一番の強みだった。そしてその土地は、吉太郎が長年買い広げてきたおかげで相当の規模がある。土地を持たないか、持っていてもわずかな近所の人たちに手伝ってもらいながら、吉太郎とハルは黙々と農作業に精を出した。

 田舎の農村には、戦地へ赴く途中なのだろう、兵隊さんが一時期逗留することも増えていた。家ごとに兵隊さんの数が割り当てられ、大きな屋敷を持つ家には大人数の兵隊さんが投宿した。その間の食事は各戸で提供する。なにぶん国を挙げて戦争をしているのだし、兵隊さんが元気に働けることはいちばん重要だ。吉太郎たちも、「供出」した残りの食糧の中から、できるだけ状態のいい穀物や野菜を兵隊さんの食事に提供した。

 兵隊さんの部隊はさまざまで東北の部隊のこともあった〈276〉。そうなると言葉がうまく通じないのだが、逆に農村出身の兵隊さんが多く、農作業を手伝ってくれることもあった。農作業のやりかたは同じだったり少し違っていたりして、ボディランゲージのようにお互いにやって見せながら、共通点や違いを確認しては笑いあった。農作業を手伝わないまでも、水汲みなどの力仕事を買って出てくれることはふつうだった。逗留期間が終わると兵隊さんたちはていねいにお礼を言って次の任地へと向かっていった。

 このあたりは、のちに二夫の妻となるミヨ子(母)から聞いた話である。ミヨ子も吉太郎たちと同じ集落に住んでいたし、そもそも同じ苗字で遠縁にあたる間柄でもあった。

〈276〉徴兵は各地域単位で行われ、本籍地を根拠としたから、都市労働者でも出身地で編成される部隊に召集されるのが一般的だった。地縁血縁、ことばの通じやすさによる部隊内での団結を企図したのだろうが、個々の兵員に対しては無言の圧力になる面もあっただろう。

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