文字を持たなかった昭和 二百五十二(年の晩=大晦日)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちの正月支度を書いてきた(大掃除障子張り餅つき門松・鏡餅など)。

 大晦日は「年の晩」と呼ばれていた〈134〉。ミヨ子は正月料理と大晦日の夕飯、両方の準備に追われていた。

 当時ミヨ子たちの集落を含む農村地域一帯に「おせち」の習慣はなかった。鹿児島全体そうだったのかもしれない。だからといって正月料理がないわけではなかった。大晦日までに雑煮の出汁や三が日の間食べる料理を準備した。料理の詳細は正月の記述に譲るとして、今日は年の晩について。

 年の晩のご飯はもちろんふだんと違う。毎年恒例なのは「しゅんかん」である。「しゅんかん」は、鰤などの大型の魚をぶつ切りにして大根や里芋と煮込んだ、味噌味の煮物だ。おそらく鹿児島の郷土料理だと思うが、ミヨ子たちの地方の料理かもしれない〈135〉。

 明治前半生まれの舅の吉太郎は魚を好んだ。畜肉は好まなかったというより、畜肉を食べる習慣自体がほとんどなかったのだ。節目の行事のときはほぼ例外なく魚料理、まれに鶏料理を作った。ならば大晦日に鶏料理でもよさそうなのに、と子供の二三四(わたし)などは思ったものだが、地元には「鳥を獲ったが飛んでいった」*という俗諺があり、大晦日に鶏料理は縁起が悪いのだと、ミヨ子は説明した。

 大晦日と言っても「しゅんかん」が加わる程度で、特段華やかなわけではない。ただ、家にあるいちばん大きな鍋に、やはり大ぶりに切った大根や大きな里芋がたっぷり入った温かい料理は、やはり特別なものだった。大根は、世界一大きい大根と言われる「しまでこん 」*2(桜島大根)を使うのが定番だった。「しまでこん 」は味が染みやすく煮崩れしにくいのだ。

 一人ずつ大きめの皿に盛った「しゅんかん」をすこしずついただきながら「紅白歌合戦」を見るのは――テレビを買う前はラジオで聞いていたのだろう――、大晦日ならではの楽しみだった。吉太郎と夫の二夫(つぎお)は、焼酎のお湯割りをゆっくり飲んだ。

 紅白の間に家族が交互に風呂に入り、ミヨ子は夕食の片づけのあと風呂をしまう。「ゆく年くる年」が始まる前に、こんどは年越しそばの用意だ。年越しそばは、厚く削ったカツオ節で出汁をとり、乾麺か近所の食品店で買ってきたゆで麺を、人数分より少な目に用意した。具は油あげ程度のシンプルなもの。縁起物として食べるだけなので、それほど量はいらない。

 「ゆく年くる年」で中継される除夜の鐘を聞きながらそばを啜り、ゆく年の無事に感謝しつつくる年に希望を…。

 もちろん、ミヨ子はそばをよそった食器全部を洗ってから床に就いた。

〈134〉大晦日を「年の晩」と呼んでいたことを忘れていたのだが、たまたま今日あるエッセイを読んで思い出した。せっかくなので別項(二百五十三)で書いておく。

〈135〉しゅんかんは「笋羹」で、「中国大陸から伝来し京の都で精進料理として作られたものが、その後、筍のふるさと鹿児島に伝わり島津の殿様料理となった。その後春の祝い料理として庶民にも広がっていった。もともとはイノシシ肉を使用していたが現在では豚肉を使用し、色とりどりの野菜を面とりして薄味に仕立てるという、素材の持ち味と彩りを活かし丁寧に作られる料理である。」らしい(サイト)。(筍羹、春羹、春寒などの字を当てることもあるようだ)
 地域には、もしかすると豚肉で作る家庭もあったのかもしれないが、少なくともわたしの幼少期、周囲の家庭で豚の「しゅんかん」を見たことはない。冷蔵庫も、肉を食べる習慣もまだ広まっていなかったせいもあろう。
 「鹿児島の食」にあるような色とりどりの「しゅんかん」は、流通が発達してからのことではないか。味付けも、ミヨ子たちの地域では味噌味だった。
 ちなみに中国料理で「羹」は「あつもの」、煮込んだものを意味する。諺「羹に懲りて膾を吹く」の「あつもの」だ。現代中国語では長く煮てとろみをつけたスープを指すことが多い。「笋」は中国語では筍、あるいは筍のように地中から伸びて来る植物を指すので(例:蘆筍=アスパラガス)、「笋羹」はたしかに本来は精進料理だったのだろう。
かごしまの食>しゅんかん

*鹿児島弁:「鳥を獲ってひっ飛た(とよ とって ひっつだ)」。「鳥を」が短くなり「とよ」、「ひっ」は強調、「飛んだ」が短くなり「ひっ」とつながって「つだ」となる。今もこんな言い方があるとは思えないが、当時多くの大人はこれを信じていた。
*2鹿児島弁:しまでこん。桜島は鹿児島を代表する島、そこの特産の大根(でこん)なのでこう呼ばれている。植物学上の分類としてはカブの一種らしい。


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