文字を持たなかった昭和 二百四十八(正月支度――大掃除)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちが新年を迎えるために勤しんだ支度のとして、新しい衣類の購入年の市について書いた。その後クリスマス(ツリープレゼント等)でだいぶ足踏みしてしまったが、正月支度を続ける。

 新年を迎える準備と言えば外せないのは大掃除だ。舅の吉太郎が健在だった昭和40年代前半までは囲炉裏があったから、屋内も汚れやすく、「煤払い」をはじめ年末の大掃除は欠かせなかった。そもそも当時の民家は気密度が低く埃が入ってきやすい構造だったうえ、農家は作業着のまま家に出入りしたり、土間で作業したりすることはしょっちゅうで、汚れを持ち込みやすい生活でもあった。

 大掃除は家族総出である。煤払いで煤や埃が落ちても大丈夫なように、まず男衆が畳を外して外に出した。畳の下には新聞紙が敷いてあったが、交換するためにこれも取り除く。障子も外した。それから、梁の上に積もった煤で汚れた埃を手製の大きな庭帚で落すのだ。これも夫の二夫(つぎお)が担当することが多かった。

 外に出した畳は両面を叩いて埃を落す。畳のヘリや裏側には埃がけっこうついていた。煤を払ったら、剥き出しの床に箒をかけ、そのあと雑巾で拭きあげる。床板が乾いたら新聞を敷き直して畳を戻す。畳の移動も力仕事なので、このあたりはほとんど男衆が受け持った。

 拭き掃除はほとんど女衆や子供の仕事だった。床板や敷き直した畳、広い縁側や上がり框、柱、戸板など、1年分の汚れを拭いておきたいところは数限りなくあった。外との境界があいまいな生活なので、埃以外に蜘蛛や虫の巣、虫の死骸、ときにはネズミの糞など、ありがたくない汚れもあちこちにあり、雑巾を手にした二三四(わたし)は心の中で「おえー」と唸っていた。

 家の中の掃除がある程度進み、ゴミや埃が庭に掃き出されると、庭掃除も始まる。これは二夫や上の子の和明がやることが多かった。ゴミは庭の枯れ葉などと共に掃き集め、最後は屋敷裏の雑木林の中にあるゴミ捨て場に捨てた。自然に分解されないゴミはほとんどなかったのだ。

 そうやって一家総出で一日掃除をしても、吉太郎が独身時代に手に入れた古い屋敷は、見違えるようにきれいになるわけではなかった。それでも、払った大量の煤や掃き出した埃、雑巾の汚れを見ると、その分だけきれいになったのだ(ろう)と思われた。
 

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