文字を持たなかった昭和 二百四十五(クリスマスプレゼント)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちが親として過ごしたクリスマス。前回はツリーについて書いた。ここではクリスマスプレゼントについて書いておこう。

 子供たち――昭和35(1960)年生まれの和明と、二つ下の二三四(わたし)――がうんと小さい頃は、地方の農村にも出回るようになった「サンタのブーツ」を、子供たちが寝静まったクリスマスイブの夜、それぞれの枕元にそっと置いておけばよかった。「サンタのブーツ」とは、ブーツの形の入れ物にお菓子が詰まったあれである。昭和40年代はブーツも紙製で、銀紙を貼った厚紙で作られていた。

 ブーツの大きさはその年の家計の状況で決まったが、二三四の記憶では年ごとに少しずつ大きくなった。クリスマスの朝目を覚まし、枕元にお菓子が詰まったブーツが置いてあったときの喜びと言ったら! 大喜びする子供たちを見て、ミヨ子も二夫(つぎお、父)も目を細めた。

 やがて、サンタクロースは「いい子」がお願いしたプレゼントを持ってきてくれる(らしい)ことを、子供たちは「学習」する。ただし「いい子」にしていなければならない。

 「いい子」の定義は難しいが、当時ならさしずめ「親の言うことを聞く」「(積極的に)家のお手伝いする」、学校に上がった子供なら「一生懸命勉強する」「先生の言うことを聞く」と言ったところだろう。外で悪ガキ仲間といたずらばかりして𠮟られている和明はともかく、そんな兄を反面教師として要領よく立ち回る二三四は、もともとお手伝いも本を読んだりも好きだったから、「いい子」の資格は十分ある、と秘かに思っていた。

 ただし、サンタクロースにも都合がある。

 どんなに「いい子」にして、ほしいものを紙に書いてお願いしても、願いどおりのプレゼントが枕元に届けられるかどうかは、クリスマスの朝にならないとわからなかった。二三四の記憶では、1、2回は願いどおりのプレゼント――人形の家とか――が届けられたが、あとは「想定外」だった。もっともがっかりするほどのこともなく、何であってもプレゼントはうれしかった。

 子供のほうは無邪気に「サンタさんへのお願い」を認めていたが、サンタクロースたるミヨ子や二夫はどう思っていたのだろう。そんなことを聞く機会もないうちに、サンタクロースの存在を疑う年齢になり、プレゼントもいつしか届かなくなるのだが。

 ところで、紙に書いた「サンタさんへのお願い」は、二三四の場合仏壇にお供えした。子供心に、天の神様にいちばん近い場所と言えば仏壇だと判断したのだ。キリスト教の行事のお願い事を渡されたご先祖様は、さぞ当惑したことだろう。一方でわが家のサンタクロースたちは、わかりやすいところに「お願い」が置いてあって助かったのか、「こんな手に入りにくい(あるいは、よくわからない)ものを」と困ったのか。

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