文字を持たなかった昭和 二百四十四(クリスマスツリー)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)や家族の暮しぶりを書いている。時節柄クリスマスについても書いておこう。

 ミヨ子たち家族が行事としてクリスマスを過ごすようになったのはいつからだろう。なにせ、家での習慣は仏式だったし、あるいは農家らしく二十四節季に合わせた行事を繰り返していたのだから、そこに西洋の宗教行事(と言っていいだろう)を加えるのは、けっこう抵抗があったのではないだろうか。

 上の子の和明(兄)が幼稚園に行くようになった昭和40(1965)年頃には、幼稚園でクリスマスの行事――当時はイベントという言い方はなかった――も始まっていたのだろう。下の子の二三四(わたし)は、幼稚園でクリスマスに合わせて特別な行事をした記憶はあまりないのだが、クリスマスの飾りつけなどはやっていたと思う。

 そうやって子供の世代に合わせて世間がクリスマスを過ごすようになり、ミヨ子たちも巻き込まれていった、ということだろう。なぜなら、二三四が物心ついた頃には、家にクリスマスツリーがあったからだ。もちろん家族の誰かが買ってきたわけだが、嫁のミヨ子が買い物、それもそれまでの習慣にないものの購入を一人で決められるわけはなく、よその家でツリーを飾っているのを見た二夫(つぎお、父)が「子供たちが喜ぶかも」と買ってきた――のかもしれない。

 家にあったクリスマスツリーは高さは80センチくらいだった。「折り畳み式」というのか、箱にしまってあるとき幹につけられた枝は閉じた傘のように閉じてあり、飾るときは枝の一本一本を「開いて」いく必要があった。ツリーを三角錐の形に開いたらセットになっている「植木鉢」に差し、付属の飾り物をバランスよく飾り付けていく。金、銀、赤の球状の飾り、モール、サンタやトナカイ、ロウソクを模ったものどなどだ。

 忘れていけないのは雪である。白い綿も箱に入っており、適当な大きさにちぎって枝に載せた。ツリーのてっぺんには大きな星をつける。最後に赤、青、緑、黄色の豆電球が連なったケーブルをツリーに掛けて、コンセントに差せばできあがりだった。

 子供たちがうんと小さい頃は、ツリーの組み立てや枝を広げるのは二夫が、飾りつけはミヨ子が中心になって行った。子供たちは「お手伝い」から始まり、やがて自分たちで全部飾れるようになるわけだが、仏教徒の二夫やミヨ子がどんな気持ちでツリーを飾っていたのか、不思議な気がする。

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