文字を持たなかった昭和 九十九(竈)

 一連の「あく巻き」作り(月遅れの単語の節句、その一)で述べたように、端午の節句のお菓子「あく巻き」はゆでて作る。ミヨ子の家(つまり、わたしの生家)では、保存食品という「あく巻き」本来の目的に即して大量に仕込んでゆでることも述べた。

 もち米何升分もの「あく巻き」を大きな羽釜でゆでるとき。あるいは、お正月や桃の節句の餅を搗くため、これまた何升分ものもち米を蒸かすとき。ふだんの量の煮炊きをする台所の竈ではとうてい間に合わなかった。

 ではどうするか。
 庭に臨時の竈をしつらえるのだ。

 上が少しすぼまった円筒形の分厚い鉄板が、竈として使われていた。底の部分の直径は50センチぐらい、高さも50センチくらいあった。真横から見ると台形に見え、焚口がくりぬかれており(打ちぬかれていたのかもしれない)、後ろの方には空気が抜ける穴もあったと思う。焚口はケガをしないよう曲線をつけてくりぬかれていた。

 火を焚くときは、この鉄の筒(?)を庭先に置き、水を入れた羽釜を上に掛ける。あとは台所の竈を使うときと同じ要領で火を起こし、薪をくべていく。羽釜も鉄の竈に相応しく大型のものを使った。

 「あく巻き」の場合、時間はかかるが基本はゆでるだけなので、竹の皮で巻いたもち米を直接灰汁入りの水の中に入れてゆでた。一方餅つきの場合は、吸水させたもち米を蒸篭に入れて蒸かした。蒸篭は羽釜の直径より一回り大きい正方形で、何段も重ねた。ゆで時間や蒸し時間が短すぎたり長すぎたりすると味や仕上がりに影響する。とくに餅の場合、蒸かす時間が長すぎるともち米の水分が多くなって腰の弱い餅になりやすい。時間調整は、ミヨ子たち主婦の腕の見せどころだった。

 餅や「あく巻き」などの節句の支度はタイミングが決まっていることもあり、「雨天決行」だった。庭先にビニールシートと手頃な支柱で簡単な屋根を作り、その下に竈をしつらえた。雨が焚口に流れ込まないよう、竈の回りに溝を掘った。雨の日は薪も湿気て火の勢いがいまひとつなのは閉口した。

 どんなに忙しくても、天気が悪くても、節句を迎え過ごすことは当時――昭和の後半、あるいはそれより前からずっと――誰にとっても欠かせなかった。娯楽が少ない生活の中で、家族はもちろん、親族や近所の人たちが集って共同作業すること自体、貴重な楽しみだった。みんなで作った菓子や餅は、味のよしあしを超えたおいしさがあった。

 そんな暮しは、商業主義への依存が深まるにつれ、ミヨ子たちが暮らす農村地帯でも「お金を出してすますもの」に変わっていくのだが。

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