文字を持たなかった昭和456 困難な時代(15)自分の力で

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があり、しかも農村ならではのつきあいから交際費はかかるため、家計は八方ふさがりだったこと、ツケで買い物することも多い中、娘の二三四(わたし)の学費もけっこうな負担になったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 ところで矛盾するようだが、そうやってつつましく暮してはいたものの、二三四自身は自分が極端に貧乏だとは思っていなかった。とりあえずちゃんと高校に通っているし、プラスアルファの出費も対応できている。中学の同期には高校に行かず就職した子もわずかだがいたし、卒業したらすぐ働くつもりで実業系の高校へ進んだ子も多かった。そんな子たちに比べたら、普通科で勉強「だけ」していればいい自分は、まだ恵まれていると思った。

 経済的な困窮が自己卑下に結びついてはいなかった、のかもしれない。

 いま考えると、「まじめに勉強していればそれなりの成績がついてくる」という自信が、卑屈な気持ちを持たずにすんだ要因のひとつかもしれなかった。実際二三四の成績は悪くはなかった。高校入試ではろくに勉強しなかったせいか、入学時の成績はそれほどよくなかったが、成績は少しずつ上がっていき、定期テストや模試のあと学年別に廊下に張り出される成績表に名前が載るくらいにはなった。

 成績が上がることを生活の励みにしていた覚えもないが、苦手な教科でたまたま教え方が合う先生に巡り合い、成績が上がっていくのはやはり気持ちがよかった。もっとも理系、特に数学と物理は苦手で、数Ⅲはまったくお手上げだったが。

 成績がある程度安定していることからくる自信は、自分の力でも未来をひらける――のではないかという希望につながった。つまり、家の状態など自分以外の条件がどうであっても、自力でやっていけるかもしれない、という希望である。

 それはやがて一家に混乱と一種の不幸をもたらすのだが、そのことは後述する。

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