文字を持たなかった昭和464 困難な時代(23)ありがたい来客

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりで、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、高校生だった二三四(わたし)は、母親が住み込みで働いて固定の収入を得るのはどうかと考えたあげく、いっそ離婚してしまえばと「提案」したことなどを述べた。

 前項では、気づまりな生活の中、夫の二夫(つぎお。父)が外出している時間だけは、ミヨ子も二三四もひと息つけたことを書いたが、来客のときもじつは似たような状況が生まれた。

 繰り返し書いているとおり当時の家計は苦しかったが、地域的背景や二夫の性格から「つきあい」はそうそう減らせなかったため、外に出ていく以外にしばしば来客もあったのだ。多くは農協や地域の農業関係者だが、二夫の顔の広さから農業関係以外のこともあった。

 来客の多くは、最初はお茶でも話がはずむうち「焼酎でも一杯*」になりがちで、そうなると話はますます長くなった。お茶請けに漬け物、せいぜいありあわせのお菓子でも出せばよかったのが、「焼酎のあて*」となると、ミヨ子も知恵をめぐらした。

 とは言え、家にあるもの、作れるものは限られる。ご飯のおかずの肉や魚を多めして「グレードアップ」したり、安売りのときに買いだめしてあった干物を急いで解凍して焼いたり、ここぞという時にふるまうつもりのいただきもののおつまみ類を、清水の舞台から飛び降りるつもりで開けたり――といった感じだろうか。

 いよいよ何もなく、それこそ漬け物ぐらいしか出せないとき、すでにほろ酔い加減の二夫は
「〇〇に行って△△でも買って来ないか」
と気軽に言った。〇〇とは店の名前、△△は商品名だ。「肉屋からコロッケでも買って来ないか」というように。

 買って来いと言われても、近くにそうたくさん店があるわけではない。最寄りの食料品店兼雑貨店の「マッちゃんち」は、店主のおばさんが高齢になり、品ぞろえが少なくて酒のあてになるようなものはあまりなかった。その次に近い同じような食料品店も似たり寄ったり。肉屋までは自転車で20分くらいかかる。まったくいい気なもんだ、と高校生の二三四は苦い気持ちを飲み下した。

 しかし来客がいる間は二夫の気分も昂揚しているし、注意がミヨ子や二三四に向くこともないので、その点はありがたかった。まれに二三四が座敷に呼ばれて相手をさせられても、たいていは二三四が作文で賞状をもらったとか、よく手伝いをしているとかの「自慢話」だったから、気が楽だった。少なくとも、そろそろ退散していい頃合いだと思うまで、にこにこして座っていればよかった。

「毎日お客さんが来ればいいのに」
二三四はそうも思ったが、焼酎のあてにお金がかかるのは考えものだった。

*鹿児島弁。「しょちゅ(しょつ) いっぺどま いけんな?」(焼酎一杯ぐらいどうですか?)「しょちゅ(しょつ)ん しおけ」(焼酎の肴)

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