文字を持たなかった昭和 続・帰省余話4~手摺

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、先だっての帰省の際のあれこれをテーマとすることにして、強く印象に残ったことの簡単なまとめに続き具体的なエピソードを書き始め、前項では顕著な変化として「膝かっくん」の状況について書いた。

 書きながらこれについても触れねばと思ったのが、住居内外の手摺である。

 長男(兄)家族との同居が始まった10年ほど前には、すでに杖が身近にあったミヨ子さんだが、室内など短い距離なら杖なしでも歩けた。やがて室内でも杖が必須になった。その後、つい杖を忘れて立ち上がり足がもつれる、という状態が生じるようになったのは2年ほど前だろうか。

 義姉は
「つい杖を忘れて立つほど、まだ脚が丈夫ということではあるんだけど、(杖なしでは)バランスが取りにくいみたいなのよね」
と言っていた。ついでに言えば兄からは
「また杖を忘れてる! 立つときは杖を持ちなさい、っていつも言ってるだろう」
と小言を言われてもいた。

 それでも半年ほど前の帰省の際は、まだ杖を頼りになんとかほぼ自力で歩いていた。そのため手摺の存在に、二三四(わたし)自身あまり注意を払っていなかったかもしれない。

 しかし今回。室内での歩行も明らかに杖だけでは不十分に見えた。当然手摺が頼りになる。

 ベッドからトイレへ、トイレから洗面所へ、洗面所からダイニングテーブルの椅子へ、ダイニングからリビングの座椅子へ、といった数メートルずつの歩行も、杖と手摺を頼りに少しずつ進む。調子がよければ杖だけのこともあるが、やはり手摺に掴まるほうが心強そうだ。

 手摺は、それぞれの部屋の移動経路にあたる部分の壁に取り付けられている。玄関の上がり框の脇にもある。玄関から突き当りのトイレへ向かう、廊下の壁にもある。庭の駐車場に下りる2,3段の段差部分にも手摺が設けられている。

 ちなみに、ここはデイサービスの車が停まる場所でもあるが、このわずか数段の段差はとても心配な場所でもある。じっさいミヨ子さんは数年前ここで転んでケガをしている。骨折しなかったのはただただ幸運だったと言える。

 かように「あちこち」に手摺が設けられている様子を改めて見ると、以前に比べて手摺が増えたことを実感する。

 それぞれの手摺が歩行を助けてくれているのはありがたいが、もともと高齢者との同居を見越して建てた住宅ではないので、連続的に手摺を伝って移動できるわけではないし、たとえばトイレの外開きのドアを開けるときは、手摺から手を離さなければならないなど、さまざまな不具合がある。つまりシームレスで移動できるわけではないのだ。これは、ふつうの住宅を高齢者向けに改善する場合、どこのお宅でも遭遇する問題だろうとも思う。

 ありがたいのは、それらの手摺の設置費用は(要件を満たせば)介護保険で大部分をまかなえることだ。そのため、ミヨ子さんの脚力の低下に合わせるようにして手摺も少しずつ増やすことができたのかもしれない。

 しかし、手摺も際限なくつけるわけにはいかない。杖と手摺の併用もいつまで続けられるだろう、とも思う、いずれ歩行器へ、やがては車椅子へ、ということになるかもしれない。一方で認知機能や内臓機能の低下も進むだろう。

 がっちり取り付けられた手摺を眺めながら、介護、そして年を取ることについてしみじみ考えてしまうのだった。

※前回の帰省については「帰省余話」127

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