文字を持たなかった昭和 帰省余話27~国民宿舎

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは、そのミヨ子さんに会うべく先月帰省した折りのできごとを「帰省余話」として書いてきた。ミヨ子さんを連れて、郷里の小さな町に数年前にできたグランピング施設に泊まったことにも触れた。

 その施設の敷地にもともとあった国民宿舎について、少し書いておきたい。ミヨ子さんを含む「町民」にとって、国民宿舎はちょっと特別な日常に欠かせない施設だったから。もちろんわたしにとっても。

 ウィキペディアによれば国民宿舎は「日本国民の健全なレクリエーションと健康の増進を図り、国民の誰もが低廉でしかも快適に利用出来ることを目的として1956(昭和31)年に制度化された。」昭和の頃の人びと――と言っていいと思う――にとって、国民宿舎のほとんどは自治体単位で所有、運営されていて、どの町や村でも宿泊やイベントの場所として頼りになる存在だった。もちろんミヨ子さんが住んでいた町でも。

 町民は、国民宿舎に泊まる必要はまずないから、宿泊施設としての利用はほとんどなかった。しかし、大小の宴会場は、さまざまなイベント――昭和なら「行事」と呼ぶところだ――の会場として大いに利用された。町(ちょう)主催の大きな会議や活動はもちろんここで。農協や漁協、商工会の会議や懇親会も。地域の学校どうしの交流会や、合宿もここで行われた。

 町民にもっと身近なところでは、地元の学校の同窓会もよく開かれた。これは帰省の時期に合わせることが多いので、正月かお盆の季節に集中していた。県外から帰って来る人たちも、親が高齢になったりきょうだいの結婚により実家での宿泊が難しい場合は、国民宿舎に宿泊すればよかった。

 地域の冠婚葬祭にも使われた。

 屋久島に嫁いだミヨ子さんの妹すみ子さん(叔母)も、ここで花嫁衣裳を着て披露宴を行ってから屋久島へ旅立った。まだ小学生だったわたしにとって結婚式に出るのははじめての経験で、学校の制服――標準服と呼んでいた――で出席したが、海を臨む芝生で出席者が揃って記念写真を撮った風景、その中心にいた白無垢のすみ子さんの眩しく美しい姿ははっきり覚えている。その前の晩には、屋久島から赴いた新郎とその親族はもちろんここに宿泊したはずだ。

 葬儀の場合、葬儀場は別として、遠方からの列席者は飛行機や「汽車」の都合によっては、やはり国民宿舎に泊まった。

 客室は畳敷きで、数人からもっと大人数が泊まれる広い部屋が中心だったが、出張などでの利用も想定してか、一人、せいぜい二人ぐらいまでの小さな部屋もあった。県外の友人知人が遊びに来たとき、実家に泊まってもらうほどの関係でない場合も、国民宿舎を紹介すればよかった。

 小さい部屋はトイレがなかったりしたが、おそらく開業当初から大浴場は温泉で――国民宿舎の存在を知ったときには、温泉の大浴場は機能していた――海に面しているのに温泉つきというのはかなりの「売り」だったと思う。小さなロビーでは地元や近隣の特産物も売っていた。帰省の折りはここに立ち寄ってお土産を買うこともあった。

 かように使い勝手のいい施設で、ある時期から運営を民間に委託し、部分的なリノベーションもしていたが、老朽化は年々顕著になっていた。6、7年前だろうか、「建物耐震化の必要があるがその費用負担が困難なので、更地にして売却するらしい」という話を聞いた。その次に帰省したときは、町(ちょう)や町民とともにさまざまな思い出をともに紡いだ施設は、跡形もなくなっていた。

 そのあとにできたのがグランピング施設で、しゃれたトレーラーやテント、小ぶりのホテル棟が立ち並んでいる。「海に沈む夕日を一望しながらバーベキュー」というのが売りだそうだ。町民とともにあった施設の跡地が、もっと広範囲の人びとに親しまれるのは喜ばしいことだと思う。ホテル棟には会議やイベントを催せる小ぶりのホールもある。だが、国民宿舎のような使い方はできないだろう。

 もとより国民宿舎という形態自体が時代に合わなくなっているとも言える。人口減少もあって、小さな町や村単位で大きな宴会場を持つ施設を維持するのは難しいだろうし、それに代わる新しい施設が民間で運営できればそれでいいのかもしれない。

 でももう郷里の町で学年単位の同窓会はできないだろうと思うと、やはり寂しい。わたし自身が同窓会に行くかどうかは別問題としても。

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