文字を持たなかった昭和 三十一(結婚披露)

 いよいよミヨ子と二夫(つぎお)――つまり、わたしの両親――の婚約が決まり、結婚式、鹿児島弁でいう「ごぜむけ」(※46)の支度が整った。すべては仲人さんが仕切り両方の親がそれにしたがった。

 昭和29(1954)年3月10日。結婚式はいわゆる「人前結婚」で、二夫の家に仲人夫婦、両家の主な親戚が集まって披露された。集落のまとめ役など近所の主だった人も招いたことだろう。二夫の父・吉太郎が買った屋敷は広かった(※47)。雨の日でもちょっとした作業を行えるよう広くとった土間を上がると、囲炉裏を切った部屋がありそこから床の間のある「表の間」に続いていた。二間をぶちぬき一人分ずつの御膳を置けば、30人くらいは楽に座れた。

 冠婚葬祭は集落がこぞって協力していた時代、料理は近所の主婦たちが手伝って用意したことだろう(※48)。手作り感満載と言えば聞こえがいいが、当時の農村地区では当たり前の、質素な結婚披露だった。

 それでも結婚写真だけは撮った。写真といえば写真館で撮るものだった時代に、若夫婦だけで撮った写真が残っている(※49)。写真館は町の商業地区にあり、歩けば小一時間かかったはずで、花嫁衣裳を着こんだミヨ子が歩いて行ったとは思えない。なんらかの交通手段を用意してもらって写真館まで行ったのか、写真屋さんに出向いてもらったのか。ミヨ子だけはリヤカーに乗せてもらって写真館まで行った、と聞いたような気もするがはっきりしない。

 ミヨ子は結婚式まで二夫の家を訪れたことはなく、両親、主に母のハツノから言われた通りに支度を整えただけだった。嫁入り道具と呼ぶほどのものはなかったが、紡績工場勤務時代の貯金で足踏みミシンを買った。実家から集落の田畑を挟んで反対側の、坂の中腹にある二夫の家まで、ハツノがミシンを運んでくれた、とミヨ子は語っている。坂は、表玄関側に当たるゆるやかな東側と、勝手口側に当たる狭くて急な西側の2方面があったが、ハツノは「西の坂」から行った、とも。

 この日はミヨ子の24歳の誕生日でもあった。

※47 鹿児島弁で結婚式や結婚披露宴を指す「ごぜむけ」は「御前迎え」が短縮したもの。語(音)の短縮は鹿児島弁の大きな特徴のひとつ。
※48 吉太郎が買った屋敷についてのエピソードは別途書きたい。
※49 わたしが子供の頃まで(昭和40~50年代はじめ)、葬儀のときは喪主の家に近所の人が集まり手伝っていた。料理も近所の主婦たちが協力して作った。子供たちもできることは手伝っていた。やがて主婦たちのパート勤めが始まり、料理は仕出し屋さんから取るようになった。さらに互助会制度や葬儀施設が整ってくると、葬儀は「お金を出してプロに依頼するもの」へと変わっていった。結婚式はもっと早く商業化され、町の中心部にある「国民宿舎」が格好の披露宴会場としてよく利用されていた。
※50 実家を取り壊す際に写真はほぼ散逸したが、撤去作業中に結婚写真が出てきたため、作業会社の人が気を利かせて取っておいてくれたそうだ。

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