おまけ(ハウスのデザートミクス)

 このところ、母ミヨ子が昭和40年代に作ってくれていた冷たいおやつについて立て続けに書いた。

 書くに当たり、ハウスのホームページを調べたとき、プリン「シャービック」「ゼリエース」といったデザートミクス、つまり「素」が今でも製造販売されていると知ってちょっと感激した(「フルーチェ」については今でもスーパーや、たまにCMで見かけることもあり、「現役」であることは知っていた)。

 またホームページは、デザートミクスがスーパーやコンビニ以外に100円ショップでも売られていることに触れており、100円ショップには行ってもあまりチェックしない食品の棚を覗いたら、たしかに「素」がずらりと並んでいた。それぞれバリエーションも豊富で、プリンミクスには「ごまプリン」という妹(弟か?)までいた。

 プリンミクスが発売されたのは昭和39(1964)年、1回目の東京オリンピックの年だ。高度経済成長の真っ最中で、ライフスタイルが大きく変化した時代、衣食住すべてにおいて、さまざまな「便利」で「手軽」で「近代的」な商品が、大量に開発され販売され、消費され始めていただろう。ミヨ子が田畑を耕していたような地方の農村にも、その波は――多少遅れてかもしれないが――押し寄せ、人びとを吞み込んでいったことだろう。

 ミヨ子のような農家の主婦たち、地方の小さな町や村の人びと、そこに住む子供たちが、初めて見たであろうひとつひとつの商品を、どんな思いで受け止めたのかを考えると、興味深い以上に切ないような気持ちになる。中には「がんばって買ってみた」あるいは「とても買えない」ものもあっただろうから。

 プリンミクス発売から60年近くが経過し、成熟した(ということにする)東京は2回目のオリンピックをコロナ禍の中でなんとか終えた。日本は全体的に老いていこうとしている。この先、1960年代のような熱量と希望を、多くの人が素直に共有する社会は到来しないだろう。その逆はあっても。

 そんな中で、発売された頃と同じスタイルのデザートミクスが、当時とほぼ同じ作り方のまま売られ、受け入れられていることに、何かの魔法を見せられているような気分になった。

 ミヨ子が初めて作ったプリンには、明治生まれのわたしの祖父母(ミヨ子の舅・姑)の分もあっただろう。それを考えると、もう5世代くらいの人びとに愛されてきたことになる。

 100円ショップで数十年ぶりに手にしたプリンミクスを眺めながら、ひとつの商品が時代をくぐり抜けてきたことの意味と、その時代について深く考えている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?