文字を持たなかった昭和 百八十二(稲刈り、その一)

 実りの秋、収穫について書いてきたが(「秋の収穫期に」、「サツマイモ」、「」)、秋の収穫の最も代表的なものはやはり稲刈りだろう。

 母ミヨ子が昭和29(1954)年に嫁いだ先は、当時の農村の典型的な農家だっただろう。ただ、田畑や山林、家屋敷などすべての土地と不動産は舅の吉太郎が一代で買い広げたことと、跡継ぎとなる息子が当時にしては珍しい一人っ子だったことは、よその家とかなり違っていた。だから、嫁のミヨ子は重要な労働力としても期待されたはずだ。

 地方の中規模の農家にも農機具が普及する昭和40(1965)年頃までは、稲刈りはすべて手作業だった。子供の二三四(わたし)も、家に手押し式の稲刈り機(バインダー)が「来た」ことを覚えており、逆にそれまでは家族総出だけでは足りず近隣の手伝いももらいながら稲刈りしたことも記憶にある。

 ここで述べるのは、機械で刈るようになるまでの稲刈りの様子だ。

 まずは準備から。

 刈った稲はそこに置いておけばいいわけではなく、物干竿をつなげたような「稲架(はざ)」に架けて天日干しする。だから稲架を組むための支柱になる長くて比較的まっすぐな木の枝や竹竿を準備するところから始まる。

 これらの道具は毎年使うものなので、床下に寝かせてあった。鹿児島の古い家屋は湿気や白アリへの対策、場所によっては水害対策もあって、礎石のうえに柱を立て、床は地面から1メートルほども高く作るのが一般的だった。

 そのため床下は吹き抜け状態であり、ここに季節の農具類などふだん使わないものを置いた。鶏を飼うカゴを置く家もあった。床下が吹き抜けなので夏場は涼しいが、冬は寒い。とくに畳を敷くだけの経済的余裕がなかった時代は、かなり寒かったことだろう。

 その床下から稲架を組むための道具を出すのは、もちろん男たちの仕事だ。二夫は、両親ともかなり年齢がいってから生まれたため、ミヨ子と結婚する頃には吉太郎は70歳近かったから、農作業、とくに力仕事の主力は夫の二夫(つぎお)が担った。

 道具類は家に耕運機が「来る」まで、人が引くリヤカーに積んで運んでいた。牛を飼っていた時期もあったが、牛を運搬(や農耕)に使うことはなかったように思う〈119〉。道具を積んで縄で固定したリヤカーは、二夫が引き、ミヨ子が後ろから推した。近くの田んぼならまだいいが、家から離れた田んぼになると、引くほうも推すほうもたどり着くまでにけっこう消耗したはずだ。

 戦後の農地改革でいわゆる「小作」制度はなくなったが、どの農家も一定以上の広さの田畑を持っているわけではなく、あちこちに分散してはいても田んぼや畑が何枚もあるのは吉太郎が少しずつ買い集めたおかげであり、ありがたいことだった。

 もっとも田畑も、のちにミカン山として開墾する山林も、基本的には家から歩いて行ける範囲にあった。いちばん近い田んぼは集落の中、集落の外となると大人の足で10~15分、いちばん遠い田んぼでも20分くらいだろうか。吉太郎自身がまさに「自分の脚で」歩いて土地を見に行き、買ったためだろう。

〈119〉あくまでわたしの記憶。

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