文字を持たなかった昭和 百八十(秋の収穫――柿)

 昭和の後半、鹿児島の農村での秋の収穫。サツマイモ(カライモ)の次は、系統が違うが柿について。

 母ミヨ子の嫁ぎ先となった鹿児島の農家(つまりわたしの生家)の広い庭には、柿の木があった。正確に言えば、庭より80センチほど高い土地を石垣で囲った畑の一角に。縁側の向かい側の位置だったので、季節ごとの柿の木の変化は、ミヨ子たちにとってちょっとした風物詩でもあった。

 夏、青く固かった柿の実は、秋の訪れとともに色づいてくる。やがて濃いオレンジ色になると、ミヨ子や夫の二夫(つぎお)は先を割った長い竹竿を持って、枝先の柿の実をもいでいくのだった。柿の木はけっこう背丈が高く、子供たちがまだ小さかった昭和40年代前半でも、手が届くくらいの枝に成っている実はそう多くなかったのだ。

 この時点での実は、色づいてはいてもまだ固い。落した実を拾うのは、姑のハルや子供たちの役目だった。

 拾った実は皮を剥いてみんなでいただく――わけではない。

 なぜなら、ミヨ子の家の柿は縦に長い渋柿だから。

 渋柿の渋を抜いて甘くして食べるいちばん簡単な食べ方は、干し柿にすることだ。ヘタの部分を残して、リンゴの皮を剝くようにくるくる回しながらひも状に皮を剥いていく。剥き終わったら、ヘタの部分に藁――のちにはビニールの紐――をわっかにして掛けて、軒下に吊るして干し柿にするのだ。このために、ヘタには木の枝が少し残っているほうがよかった。

 柿の皮むきは、もちろん(というべきか)女たちの仕事である。姑のハルが元気で目も丈夫なうちは、ハルが先頭に立って皮を剥いた。二三四(わたし)も、料理の手伝いで包丁使いはけっこう早く覚えたから、小学校中学年頃には、柿の皮むきも手伝っていた。

 皮を剥いた柿を軒下の竿に吊るすのは、二夫だった。上の子の和明も、中学に入り身長が伸びる頃にはこれを手伝った。農作業で腰が曲っていた舅の吉太郎は、ここでは活躍の場がなかった。いずれにしても、家族総出の作業には違いなかった。

 吊るしておいた柿はやがて萎びて茶色になる。その頃を見計らって、少しずつ下ろしてはお茶請けにして食べた。渋が抜け、甘みが凝縮しておいしい――はずだが、種のまわりがどろりとしていること、まれに渋が抜けきっていないこともあり、二三四はあまり得意ではなかった。濃い茶色のしわしわの外観も食欲を減退させた。

 ほかの家族は自家製の干し柿を好んでいるようだった。ただし、二三四以外にもう一人、干し柿をそれほど好きでない者がいた。ミヨ子である。いわく
「柿を食べると便秘気味になる」
らしかった。おそらく柿の渋の作用だろう。食べないわけではなかったが、好んでいくつも食べる、ということはなかった。

 あるいは、母親のこの一言のせいで、幼い二三四は柿に対するなんらかの先入観が醸成されたのかもしれない。いまでも、柿に対しては「あれば食べる」程度なのだから。

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