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母は精神疾患でした【詳細版】①|母の異変を感じた幼稚園~小学校低学年時代

■はじめに​お読みください

▶不快に思われたり、辛く感じる方がいるかもしれません。
▶この体験談では私の母親が実際に罹患していた、『うつ病』『統合失調症』『パーソナリティー障害』を扱っていますが、あくまで「私の母親」の場合であり、これらを患う全ての方々の症状や回復過程を指すものではありません。一事例としてご覧頂ければ幸いです。
※2022年4月18日に公開した記事を加筆・訂正しています。最終2024.6

■幼稚園~小学校低学年時代について


うつ病・統合失調様の症状が主体だった幼稚園~小学校低学年時代

私の出生前から精神疾患を患っていた母。
私が生まれてからも、軽いうつ症状のようなものは出ていたようです。
しかし、私は幼かったためか、そのことに全く気がつきませんでした。

そんな母の症状が悪化したのが私が5歳の時でした。
この時初めて、私は母の症状を目の当たりにしました。

母が病気なんだとわかった時の悲しさ、優しかった母親が全く別人の様に変わってしまったというショック、寂しさ、辛さ‥‥。
いろんなマイナスの感情が一気に自分の中に押し寄せてきた時期です。
そんな幼稚園~小学校低学年時代の話を書こうと思います。


■お母さん、どうしちゃったの?

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‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「‥‥こんな家出て行く!!」

「あんたらと一緒に暮らしたくないし、一緒にいたくない!!!」

「おまえらみんな、私が死んだほうがいいと思ってるんやろ!!」

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

この日のことは、もうずいぶん前の記憶ですが、今でも鮮明に覚えています。

初めて母親の症状を目の当たりにした日です。
その日は、いつもの日常と変わらず妹とリビングで遊んでいました。

しかし、その時ばかりは「お母さんが何か大きい声をだしてる‥。」「様子がおかしい…。」と母親の状況を察して、徐々に張り詰めた空気になったのを覚えています。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「もうどいて!!出ていくんやから。もう一生会うこともないわ」

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


そう叫ぶ母親は全く別人にみえました。
私と妹は、その場の異様な空気感や、母親の普段とのあまりの違いに恐怖を感じ、その場から動けませんでした。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「じゃあね。みんなさようなら。みんなも私がいない方がいいんでしょ」


‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


何が起こったのか、わかりませんでした。ただ、その時の私は、とにかく母に出ていって欲しくなかったので(当時は母が出て行ったら一生会えない気がしました)私と妹は母が出ていかない様に玄関の前に立って泣きながら


「なんで出て行っちゃうの?出ていかないで!」


と力づくでも出て行こうとする母を、大号泣しながら全力で引き留めることしかできませんでした。



すると母はハッと気づいた様にこちらを見て

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「‥‥ごめん、ごめんね」

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

と泣きながら私達を抱きしめました。



私は訳がわからず呆然として、ただただ「お母さん、どうしちゃったの…」と母親と一緒に泣くしかありませんでした。

それまで優しかった母が別人のように変わってしまった瞬間でした。


■一変した日常生活

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母の異変を目の当たりにした日から、私の生活は一変しました。


その日を境に(私の記憶の限りでは)、母親の症状が顕著に表れるようになったのです。


母親の症状は、暴言・妄想・自殺未遂・自傷行為等いろいろありました。
(もっといろいろあったと思いますがよく覚えてません)


母が泣きながら暴れれば、父と二人がかりで落ち着かせ、

母が自殺未遂をすれば、体を押さえつけてでも引き留め、

母がリストカットをしていれば、落ち着かせて父親に処置をしてもらい、

母が「自分は価値のない人間だ」と悲観的になれば、一緒に泣いてなぐさめる。


そんな生活が続きました。
いっぱい泣きました。
豹変した母親に対応するのは、全く違う人と接している様で怖かったです。


また、母が自傷行為や自殺未遂をすることで、「大好きなお母さんが死んでしまうかもしれない」という恐怖もありました。



父が一緒に母をみてくれている時は良いのですが、父が一瞬目を離したり、買い物に出かけている時に限って、母は自傷・自殺行為を行う傾向がありました。


そのため
「私がお母さんから目を離したら、ベランダから飛び降りたり、包丁を使うかもしれないから見張っとかないといけない」
と四六時中、母親の一挙一動に気を遣っていた記憶があります。



そんな中、いくら家族総出でケアに励めど、母親の症状は軽快することはなく、どんどん悪化していきました。


そして、最終的に精神病棟に入院することになってしましました。


母の入院後、私は「お母さんがいなくなってほっとした」というよりも「お母さんがいなくて寂しい」という気持ちの方が大きかったように思います。


そのため、母親の入院中は、どんな風に過ごしていても「お母さん、早く帰ってこないかな」「会いたいな」という思いがいつもありました。
その一方で「でもお母さんもがんばってる、今は我慢しなきゃ」「お母さんの代わりに自分がお母さん役になってお父さんと妹を守らなくちゃ」という思いがありました。今振り返ると、そう思うことで寂しい気持ちをまぎらわせ、自分を奮い立たせていたんだと思います。


入院後の母親はというと、病状が軽快するどころか症状の振れ幅が大きくなり、ますます不安定になっていきました。
(処方されていた精神薬がなかなか効かなかったことに加え、精神薬の副作用の影響もあったのか、ますます精神状態が悪くなっていっていました)



そんな母と連動するように小学校入学後、私自身にも変化が表れ始めます。



■私に起きた異変

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新しいランドセル、新しい帽子、教科書、友達、全てが初めてのことばかりでドキドキの学校生活がスタート‥‥したのですが、何日かたって私はいきなり不登校(学校をやすみがち)になってしまいました。

小学校に入学してからしばらくして、私は時折とてつもない切なさや焦燥感におそわれる様になったのです。
特に家から一歩でも出ようとすると、その気持ちが大きくなって、いてもたってもいられなくなるという状態でした。

その時の気持ちは、今でもとてもよく覚えています。

学校に登校できたとしても、席について30分もたたないうちに、担任の先生に「…家に帰らせて下さい。お父さんを呼んでください」と泣きながら頼む始末でした。

学校に行くと不安が大きくなるので、「頭が痛い」と言って、仮病を使い、何とか学校に行かないようにしていました。
学校に行けるようになったのは、確か入学して半年たった時か、2年生に進学してからだったと思います。

しかし、学校に行ける様になった2年生以降も、私の不安な気持ちはずっと続いていました。
常に周囲を過度に警戒したり、強迫観念(強い不安感や恐怖)や強迫行為(強迫観念を打ち消すために繰り返し行う行動)もあった記憶があります。

今思うと、不安定な家庭環境にストレスを感じ、知らず知らずのうちに身体がSOSを出していたのかもしれません。


▼▼次のお話▼▼

母は精神疾患でした|#2 症状の経過に一喜一憂した小学校高学年時代


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