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龍神さまの言うとおり。(第1話)

七月も末となった、土曜日の午後一時。

高層ビル群が建ち並ぶ新宿副都心からほど近い、西新宿エリアにある地下鉄初台駅。ここは、娯楽施設のオペラシティや新国立劇場に隣接しているためか、多くの人が駅の出入り口周辺を行き交っている。そんな人混みの中で、地下鉄へと急ぐスーツ姿の三河洋介の上には、容赦なく真夏の日差しが降り注いでいた。

すでに四十三歳を過ぎ、中年サラリーマンともいえる洋介は、ここから京王線に乗り、新宿駅で都営大江戸線に乗り換えた後、日本最大級の繁華街、歌舞伎町からほど近い牛込柳町駅へと向かっていた。というのも、この日は、高校一年生となった長男、広太郎の保護者会が、私立青雲高等学校の教室を使って開催されるからである。

牛込柳町駅の地上出口から歩いて数分の場所にある校舎は、駅周辺に広がる閑静な住宅街の路地裏を抜けた先にある。

「確か、この先のはずなんだけど・・・」

なんとか校舎の近くまで辿り着いた洋介は、事前に送られてきた保護者会の地図案内をビジネスリュックから取り出すと、慎重に道順を確かめた。

「よし、この先で間違いない」

そうつぶやきながら、住宅街の路地裏を小走りに急ぐ洋介は、昨夜遅く妻と交わした会話を思い出していた。

「洋介さん、明日の午後だけど、広太郎の保護者会があるの。私の代わりに行ってくれない?私は午前中に杏奈を歯医者さんに連れて行って、午後からは、そのまま杏奈と一緒に百貨店の職人展会場へ、事前の機材搬入に行くから・・・」

「ああ、いいよ。明日は土曜日で、会社は休みだしね」

洋介は、十年前に五歳年上のシングルマザーであった恵子と結婚していた。

天然石ジュエリーデザイナーとして、当時六歳の長男、広太郎と、二歳の長女、杏奈を育てていた恵子は、結婚当初から、ほぼ毎月のように関東エリアの百貨店が企画するイベント催事場に出店していた。

一方で、大手旅行会社に勤務する洋介は、そんな恵子が百貨店の催事に出店する際はいつも、自分の出張が重ならないように事前調整し、家事や子供の用事に、できる限り協力していた。

そして二年前、同期入社組の中では遅い出世となる四十一歳で、やっと課長職となった洋介は、以前より出張回数が少なくなったことから、一層、家事に貢献するようになっていた。

そうした中、昨夜遅くに小学六年生になった杏奈が、急に歯の痛みを訴えたことから、妻の恵子が行きつけの歯科医院へ午前中に連れてゆくことになり、広太郎が通う高校の保護者会については、洋介が受け持つことになったのである。

普段なら、二件程度の用事であれば、無理にでも両方を自分が受け持つ洋介であったが、今回は催事のある百貨店が新宿エリアで、自宅から近いこともあって、すんなりと恵子の言う通り、午後の保護者会のみを受け持つことにしたのだった。

「ここだ。ちょっと遅くなったが、仕方ないか・・・」

学校の校門前に着いた洋介は、そうつぶやいた。

腕時計の針は、保護者会の開始時間である午後一時半を、五分ほど過ぎている。

すでに夏休み期間に入ってはいるが、部活動のために登校している学生たちは多く、校内には、そんな学生たちの声が飛び交っており、賑やかな雰囲気である。

また、この青雲高等学校は中学校を併設した中高一貫の男子校で、その歴史は百年以上もある。かつては陸軍士官学校であったこともあり、都内では屈指の進学校として知られていた。

校門を過ぎて、中庭の奥にある校舎に入った洋介は、三階へと階段を登る途中で、付けていたマスクとメガネを外して、額から頬にかけて流れるように噴き出した汗を、ハンカチで拭った。

男子校といっても、学校内の風景や雰囲気は、かつて自分が通った高校時代のそれと、さほど変わらないように見える。洋介は、思わず廊下で立ち止まると、懐かしそうな表情で周りを見渡した。

「えっ~と、一年F組の教室は・・・、あそこだ」

入り口の上部にある小さな表示板を見て、教室の前に立った洋介は、改めてマスクを付け直し、スライドドアをゆっくりと開けた。

「失礼しま~す」

洋介は、恐縮したように猫背姿で頭を低くしたまま、中へ入った。

「ああ、広太郎君のお父様ですか、あちらのご子息の席へどうぞ」

教壇に立っていた男性教諭が、前方の窓側にある席を手で示しながら洋介に告げた。

教室の中では、既に洋介を除く保護者全員が、マスク姿で着席している。その中で、前から二番目の窓側にある机が、ひとつだけ空席になっていた。

「遅くなりまして、すみませんでした」

洋介は、他の保護者たちが一斉に、自分へ視線を向けている中、教壇に立っている男性教諭の前を横切って、素早く空いていた席に座った。

第2話へ続く。


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