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「龍神さまの言うとおり。」第八話

「大変だったね。同情するよ」

新宿中央公園のカフェテラスで、恭子が体験した辛い過去の話しを聞きながら、洋介が言った。

「今も思い出すだけで、気持ちが真っ暗になるわ」

恭子は、洋介から視線をそらして静かに言った。

「じゃあ、こう考えてみたらどうかな。全てが、あらかじめ決めていた人生のシナリオだったって。北山さんが勤務した証券会社の社員や、お客さん、そして今のご主人や親族たち全てに、前世もしくは、その前から何かしらの縁があった。例えて言えば、前世での恩義を今世で返さなければならなかったり、逆に前世で迷惑をかけた事を今世で償う必要があったとか」

恭子は頷きながら、洋介の話しを、ただ黙って聞いている。

そして、洋介はさらに続けた。

「ご主人が父親の秘書を始めたということは、将来的には、都議会議員を目指すんでしょ?その後は、子供である健太くんだっけ?彼が後を継ぐことになる。北山さんは、そういった男系の子孫を作るために、結婚したのかもしれないね」

そう言うと、恭子は目を丸くして言葉を返した。

「じゃあ、わたしって、ただ子供を産むための存在だったってことなの?」

苦笑いしながら洋介は、さらに続けて話し始めた。

「もちろん、お見合いでの結婚だったとしても、北山さんは、ご主人を愛したからこそ結婚して子供を産んだ。そして、愛情いっぱいに子育てをしてきた。そうでしょ?」

「まあ・・・、そうだけど」

そう言いながらも、恭子は、何か別のことを言いたそうな目をしている。

「それでよかったんだよ。夫婦として、母親として、いいことも悪いこともあった中で、精一杯生きてきた。そして、今の流れに身を任せて離婚することで、次のシナリオが始まるのかもしれないし。まずは、そんな自分を振り返って、『よくやった』と褒めることだよ」

洋介は、そう言ったところで、すでに氷が解けてしまったアイスコーヒーを口に含んだ。

「流れに任せて離婚かぁ・・・」

恭子は宙を見上げるように、そう言うと、さらに続けた。

「三河くんが、いま独身だったら、すぐにでも離婚するけど・・・」

そんな恭子の言葉に洋介は、口に含んだアイスコーヒーを思わず吹き出しそうになった。

「んっ、もうこんな時間だ・・・」

このまま二人で時間を過ごすと、恭子への想いが一層強くなりそうな気がした洋介は、腕時計に目を移しながら言った。

時計の針は、すでに午後六時半を回っている。

「そろそろ、帰ろっか」

「い・や・だ!」

恭子は、そう言って怒ったように頬を膨らませた。

「ふっ、その顔・・・、まるで昔の高校時代に戻ったみたいだな」

洋介の言葉に、恭子は黙ったままで正面に座る洋介の目をじっと見つめている。そんな恭子の瞳は、『このまま別れたくない」』という意思が込められているように見えた。

「それじゃあ、近くにスーパーがあるから、何か買い物でもしない?」

「い・や・だ~。だって、帰っても私ひとりだけだし、買いたい物なんてないもん!」

「困った子だな~」

洋介の言葉に、恭子は少し間を置いて、「もう、これ以上・・・、待ちたくない」と、小声で、ささやくように言った。

そんな恭子の思いつめた表情を見た洋介は、からだ中から一気に熱いものが湧き上がり、頬が火照ってくるのを感じた。

「と、とりあえず、散歩でもしようか・・・」

なんとか平静を装って洋介が言うと、恭子は黙って頷いた。

トレーをカフェのカウンターへ戻した洋介は、立ち上がった恭子の手を取って歩き始めた。

歩くといっても、特段行くあてもなく、ただ繁華街へ向かう途中にあるヒルトンホテルへと足が進んでいたのだった。

「ゴロゴロ、ゴロゴロ」

遠雷の音がする。二人が空を見上げると、そこには、いつの間にか薄暗い雲が広がっていた。そして、アスファルトの路面には、黒く大きな雨粒の跡が無数に広がり始めている。

「やばい、急ごう」

洋介は、恭子の手を引いて、ヒルトンホテルのロビーへと入った。

隣にいる恭子の髪が、雨に濡れたためか、少し乱れて見える。

「奥に女性用のトイレがあるから、行って髪を直したほうがいいかも」

洋介の言葉に恭子は軽く頷いて、ロビーの奥へと歩いていった。その後ろ姿を見届けながら、洋介は、おもむろに上着のポケットから、携帯電話を取り出し、通信アプリを立ち上げてメッセージを打ち始めた。

(急にごめん。保護者会でPTAの役員になってしまって、その引き継ぎをしてたら遅くなった。それと、今日は会社に行かないつもりだったけど、週明け早朝にある会議資料の準備を忘れてた・・・。だから、帰りは遅くなるよ。それと、晩ごはんは食べて帰るから)

メッセージの送り先は、妻の恵子である。

洋介が、メッセージの送信ボタンを押したところで、こちらへ戻って来る恭子の姿が見えた。

「ごめんね。今日は、三河くんを一人占めしちゃって・・・」

恭子は、洋介が携帯で妻にメールをしたことを察知したのか、申し訳なさそうな表情で言った。

「あっ、あぁ・・・、大丈夫だよ。それより、ちょっとお腹空かない?新宿三丁目に、お洒落なワインバーがあるけど」

恭子が微笑みながら頷いた様子を見て、洋介は、再び恭子の手を取り、ホテルのエントランスを出ると、左手にあるタクシー乗り場へと向かった。

先ほどまで降っていたスコールのような雨は、すでに止んでいる。

「運転手さん、新宿三丁目の交差点まで行って下さい。青梅街道から新宿大ガードをくぐって、新宿通りを走るルートで・・・」

先にタクシー車内に入った洋介は、ドライバーにルートを告げると、後から隣の座席にすわった恭子の右手を強く握りしめた。既に妻の恵子には、帰りが遅くなることを伝えている。そんな些細な既成事実が、いまの洋介を幾分大胆にさせていたのかもしれない。

走り始めた車内で、二人は無言のままだった。そして、車が青梅街道に入ったところで洋介が、おもむろに話し始めた。

「北山さんって、高校時代の頃から、あまり変わってないね」

「それって・・・、まだ子供っぽいってこと?」

「いや、外見のこと。どう見ても四十三歳には見えないよ。まだ三十歳前半の若さだね」

「三河くんだって、全然オジサンっぽくないわ。何より、お腹が出てないし、脊が高くてスマートなところは、あの頃のままよ」

「ホント?ありがとう」

洋介はそう言って、隣に座る恭子へ視線を向けようとした瞬間、ルームミラー越しにタクシードライバーと目が合った。

「運転手さん、もう少し先の、新宿三丁目の交差点を越えた交番のところで車を停めて下さい」

洋介は、運転手と偶然目が合ったことに、ある種の違和感を覚えたが、その感情を打ち消すため、敢えてそう言って停車場所を指示したのだった。

車はすでに新宿大ガードを過ぎ、薄暮の中で眩しい光を放ち始めた繁華街を走っている。そして、新宿三丁目の信号を過ぎたところでタクシードライバーは車を停めた。

「お客様、この辺りでよろしいでしょうか?」

「ええ、大丈夫です」

そう言って洋介は、恭子と繋いでいた手を離して、支払いを済ませようとした。しかし、恭子は前を向いたまま、外に出ようとしない。ドライバーは、後部座席のドアを既に開放させている。

「い・や・だ!降りたくない」

恭子の言葉に、洋介は戸惑った。

「マジ?」

「運転手さん、このまま歌舞伎町まで行ってもらえないかしら?」

「えっ?」

その後、何も言えなくなった洋介は、そう言う恭子の指示通り、ドライバーへ歌舞伎町へ行くように告げた。

「確か、北山さんって、血液型はB型だったよね」

再び動き始めたタクシーの車内で、洋介が言った。

「そうよ、三河くんは確か・・・、O型よね」

「そうだけど、いまのB型っぽい振る舞いを見ると、また昔のことを思い出したよ。高校時代、放課後の帰りに、北山さんが急に自分だけ何も言わずに自転車で走り去ったことがあったじゃん」

洋介の話しを聞きながら恭子は、それとなく自分の右腕を洋介の左腕にからませた。せのせいか、タクシーの後部座席で寄り添う二人は、互いに体の温もりを感じることで、本能的な感情を一段と高ぶらせたのだった。

いつの間にかタクシーは、明治通りの花園神社前を通り過ぎている。

「ああ、あの時ね。三河くんの誕生日に、キルト地のメガネケースを作ってあげた時のことかな。仕上げの段階で、止め具のボタンが無かったから、帰りにそれを買わないといけなかったの。ちょうど、手芸店が閉まるギリギリの時間で・・・、しかも、誕生日の前日だったでしょ。焦ってたから、何も言わずに走り去ったのよね~」

「そうだったんだ・・・、ようやく今、分かったよ」

洋介が、そう言ったところで、タクシーは新宿文化センター通りの交差点で信号待ちをしていた。この周辺は、歌舞伎町エリアの中でも、ラブホテルが多い地域となっている。

「運転手さん、その先で車を停めてください」

そう指示した恭子は、車が停止すると、精算のため座席正面にあるタッチパネルを操作し、スマートフォンで支払を済ませたのだった。

「じゃ、ここで降りましょ」

恭子の言葉に促され、洋介はタクシーを降りた。すると恭子は、再び洋介の腕に自分の腕をからませて、密着するように体を寄せてきたのだった。この時、洋介は改めて、このエリア一帯で眩しい輝きを放つホテルの電光サインを意識した。「もう行くしかない」、そう心の中でつぶやいた洋介は、組んでいた腕を解いて恭子の腰へ手を回すと、そのスレンダーな体を自分のほうへと強く引き寄せたのである。

会話がなくても、考えていることは同じだった。タクシーを降りて、ホテル街の路地裏を歩きながらも、二人の視線は、ただひたすら満室と空室の表示へと向かっていたからである。

「ここでいい?」

洋介は、落ち着いた雰囲気を漂わせるラブホテルのエントランス前で足を止た。恭子は、洋介に身を任せながら、虚ろな眼差しで軽く頷いている。そして、間接照明がシックな光を放つエントランスを抜け、ラブホテルの中へと入った二人は、空室状況を示すパネルの前に立った。

「どの部屋にしょうか?」

「これがいいんじゃない?」

恭子が、小声で指さした部屋は、パネルの中で最も高い値段の部屋である。

「えっ?」

「大丈夫よ。割り勘にすれば・・・、ね?」

懐の心配をしていた洋介を見透かしたように、恭子が言った。

「なるほど、同級生だしな」

洋介が、答えにならないようなことを言ったせいか、恭子はその場で笑いを堪えながら、洋介の胸を軽く叩いた。

「じゃ、行こうか」

洋介は、恭子の腰へ手を回したままエレベーターの中へ入ると、恭子は待ちきれなかったように、洋介の胸に体を預けた。

勢いに任せて恭子を抱きしめながら、階数ボタンを押した洋介であったが、心の中では、二十六年ぶりに出会った奇跡を、どう受け止めればいいのか、正直なところ、まだ整理がつかないままでいた。

ただ、そんな風に、心にブレーキをかけていた洋介であっても、説明しようもない男としての欲情がこみ上げてきた今となっては、その本能ともいえる感情に身を任せるしかなった。そして今は、となりで寄り添う恭子との時間に、全神経を集中させたいと思い始めていた。

エレベーターを降りて指定した部屋に向かう二人にとって、もはや言葉などは必要ない。互いの体を密着させながら、内側から湧き起こる熱い鼓動を感じる。ただ、それだけで良かった。

第八話 おわり


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