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「龍神さまの言うとおり。」第四話

「ずいぶん濡れちゃったね。大丈夫?」

突然降り始めたスコールの中、急いで駆け込んだ地下鉄の入り口で洋介は、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、恭子の腕や背中、そして髪に降りかかった雨水を拭おうと、軽くはたいた。

「ありがとう。三河くんだってズブ濡れじゃない」

恭子はそう言って、ショルダーバッグからタオル地のハンカチを取り出し、洋介の頭や背広の雨水を拭った。

「なんだか、あの時と一緒だな・・・」

そう言った洋介は、自分の濡れたメカネをハンカチで拭きながら、二十六年前の夏を思い出していた。当時、高校時代の部活動で生物部の部長をしていた洋介は、夏休みを利用して大島キャンプの下見ツアーを一人で計画していた。というのも、生物部は毎年夏休み期間中に、部員全員で八幡浜市の沖合にある大島に一泊して、島内の龍王池周辺に生息する白鷺の生態調査をしていたのである。

その日は土曜日で、夏季補習授業は休みであった。夏の太陽が雲ひとつない青空の中、ひときわ輝いて見えた。

自宅から八幡浜港へ、三十分ほどの道のりを自転車で移動していた洋介は、その途中で見つけた自販機で、ペットボトルの麦茶を買おうと自転車を止めたのだった。背中のリュックから財布を取り出しコインを入れたところで、背後から聞き覚えのある女性の声がした。

「今から、どっか行くの?」

「えっ?」

洋介が驚いて自販機のボタンを押しながら振り返ると、そこにはピンク色のポロシャツに白の短パンで、自転車に乗ったまま声を掛けてきた恭子の姿があった。すらりと伸びた恭子の白い足が、洋介の眼に否が応でも飛び込んでくる。

この十日ほど前に、二人だけの教室で恭子からラブレターをもらって以来、学校帰りの時間を一緒に過ごしていた洋介であったが、制服姿ではなく普段着姿の恭子を見るのは初めてだった。

「あぁ、言ってなかったかな~、今から大島に日帰りでキャンプの下見に行くんだけど・・・」

「確か、『近いうちに行くよ』っていうことは聞いてたけど、今日だったの?」

「天気がいいしね、急に決めたんだ。どうせ一人だし」

「あの・・・、私も一緒に行っていい?」

「えっ?」

驚く洋介に、恭子は、今から学校の音楽室で発声の自主練習をする予定だったと話した。

腕時計の針は、ちょうど午前十一時を指している。

「まあ、いいけど・・・、帰りはちょっと遅くなるよ」

嬉しさを隠すように、平静を装いながら腕時計に視線を向けた洋介は、そう言って自販機から麦茶のペットボトルを取り出した。そして、さらにコインを入れると、再度、麦茶のボタンを押して、出てきたボトルを恭子に差し出したのだった。

「ありがとう」

「それじゃ、行こうか」

港までの距離は、自転車であれば五分ほどである。洋介と恭子は、二人並んで自転車を漕ぎ始めた。

「お昼ごはん、どうするの?」

並んで走る恭子が聞いてきた。

「ああ、大島の港に食堂があるから、そこで食べるつもりだよ」

「わたし・・・、自分用に、お弁当持ってるんだけど・・・」

「じゃ、そこで一緒に座って食べればいいじゃん」

そんな会話をしながら港へ向かっていた二人は、周辺が急に暗くなってきたことに気づくと、思わず自転車を止めて空を見上げた。大島行きフェリー乗り場の小さな建物は、もう目の前にある。

「やばい、急ごう」

洋介がそう言ったところで、大粒の雨が二人の上に降り始めたのだった。

二人揃ってフェリー乗り場の小さな待合室の中へ駆け込むと、洋介はズボンからハンカチを取り出して、濡れてしまった恭子の頭や背中の水滴を、はたくように拭った。

「ありがとう」

そう言って恭子は、洋介を見つめると、しばらく二人は向かい合ったまま、待合室で立ち尽くしたのだった。

「ただいまより、大島行きフェリーの乗船を開始します」

館内アナウンスの声に、洋介は「そろそろ行こうか」と言いながら、恭子の手を取ると、切符売場へと向かった。

スコールのような雨は、短時間で止んだらしく、切符売り場の左手にある乗り場の奥には、太陽の光に照らされた小型のフェリーと、その向こうには、再び青空が広がっていた。

都営大江戸線、牛込柳町駅。
地下鉄入り口で、黙ったまま互いを見つめ合う洋介と恭子であったが、先に口を開いたのは恭子のほうだった。

「今回は、フェリーじゃなくて地下鉄ね」

洋介と同じように、高校時代の夏を思い出していたのか、恭子が冗談っぽく言った。

「しかも東京。愛媛から、こんな遠くまで来たもんだ。お互いに」

「そして・・・、こんなに、歳をとっちゃって」

恭子が、物憂げな眼差しで遠くを見つめるように、そう言った。

「あっ、そうだ。これからの予定は?」

二人の間に流れていたノスタルジックな雰囲気を敢えて変えるように、洋介が切り出した。

「特にこれといって・・・、正直言うとね、もう少し三河くんと話したいの。PTA役員の引き継ぎも、まだしてないし」

昔のように、下から相手を窺うような目線で恭子が言った。

「確かにね。ところで北山さんって、いまどこに住んでるの?」

「中野よ。夫が会社務めをしている頃からずっと住んでるの。まあ、中野といっても、丸ノ内線の新中野駅に近いところなんだけど」

「じゃあ、新宿の都庁前駅まで行かない?そこは、地下の通路で丸ノ内線の西新宿駅と繋がっているし・・・。その近くの中央公園にはお洒落なカフェもあるから」

洋介は、恭子が軽く頷いた様子を見ると、その手を軽く握り地下の乗り場へと向かった。

あの頃と同じように自然な振る舞いで恭子の手を取ながら、二人並んで階段を降りてゆく自分に、洋介は二十六年前にタイムスリップした高校生の自分を重ねていた。

生まれて初めて意中の女性と行動を共にする高揚感。洋介が高校時代に味わったそんな感覚は、今思うと、妻の恵子に対しては抱いたことがなかった。それは、相手が恭子だからこそ味わうことができる感覚であり、まるで体中の細胞が活性化し、その反動からだろうか、胸のあたりが気持ちよく締めつけられる、そんな気分であった。

「ねえ、腕を組んでもいい?」

手をつないで歩く恭子が、照れたような表情で、洋介に言った。

恭子の少々大胆な求めに対し、内心嬉しさを感じていた洋介だったが、それを悟られないように平然とした仕草で左腕を少し曲げて隙間を作ると、たちまち恭子の右腕は、そこへ吸い込まれるように収まった。

「ありがとう。嬉しい」

「なんだか、恥ずかしいな・・・、この歳になって」

「いいんじゃない?だって、そんな歳のオトナなんだし」

恭子の言葉に洋介は、『そうだ。もう高校生じゃない』と思うことにした。

「ねえ、三河くんは、いまどこに住んでるの?」

電車を待ちながら、恭子が聞いた。

「初台だよ、オペラシティや新国立劇場の近く」

「じゃあ、この広い東京でも、案外近くに住んでたのね」

「確かに・・・」

洋介がそう言ったところで、電車がホームに滑り込んできた。そして、二人は腕を組んだまま電車に乗り込むと、都庁前駅へと向かった。

「ねえ、三河くんの奥様ってどんな方なの?」

「あぁ、さっき僕に聞いた、『ラブラブなの?』って話しの続きね・・・」

洋介は、そう言った後、妻の恵子との馴れ初めを話し始めた。

中学時代から外国に憧れ、いつか英語を使って海外へ出張する仕事をしたいと思っていた洋介は、高校を卒業後、大阪の外国語大学へ進学した。大学では英語を専攻していたが、第二外国語は、当時、就職に有利とされていた中国語を選択した。そのせいか、就職氷河期ではあったものの、順調に大手旅行会社から内定をもらうことができたのだった。

入社後は、都内の支店に配属されて、国内や海外の社員旅行をターゲットにした法人営業をしていたが、三年後には本社の商品企画部に配属され、中国向けのパッケージ旅行を企画する担当となったのである。

当時、中国や香港、台湾への旅行ブームもあって、中華圏へ頻繁に海外出張をすることとなった洋介は、自分の出張中に日本側での商品企画業務を遅らせないため、中国に詳しい人材を派遣社員として採用することを上司に進言した。そして、派遣会社からスペシャリストとして紹介されて来たのが現在の妻、恵子だったのである。洋介と同じ大学を卒業し、しかも中国語を専攻していた恵子は、すぐに会社の業務を習得し、頼れる右腕となったのだった。美人というより、背が低くて可愛いタイプの女性であったが、やがて、プライベートな話題もするようになった洋介は、ある日、恵子から食事の誘いを受ける。

就職氷河期を、ひたすら真面目に生き抜いてきた洋介は、大人である女性との付き合い方については、まだ子供であった。女性のほうから食事に誘う、それが何を意味するのか理解しなかった洋介は、食事をした後も結局、恵子とは何も進展しないままで、次の転勤が決まり、本社を後にしたのだった。

やがて、洋介も三十歳を超えると、愛媛で暮らす両親からは、「まだ結婚しないのか?」という催促の電話を何度も受けてはいたが、なぜかそんな気になれないまま、淡々と日々は過ぎていった。

そして、十一年前の夏、出張先の上海で、洋介は偶然にも恵子と出会うこととなる。それは当時、洋介が大型の法人旅行案件で上海市内にある現地手配会社との打ち合わせを終え、日本人駐在員が多く住む古北路(グーペイルー)エリアにある宿泊ホテルへ、タクシーで戻った際の出来事だった。

ホテルの前で、タクシーのドアを開けて外へ降りた洋介は、ちょうど、そのタクシーに乗ろうとドアが開くのを待っていた恵子と、偶然にもバッタリ出逢ったのである。そして彼女の隣には、五歳の男児と、ベビーカーに乗った一歳の女児が一緒であった。

あまりの偶然さに驚いた恵子は、タクシーのドライバーへ乗車のキャンセルを伝えると、そのまま子供を連れて、洋介が宿泊していたホテルのラウンジに入り、互いの近況を話し始めたのだった。

第四話 おわり


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