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写真界の巨人・細江英公よ永遠なれ

去る09月16日、写真界の巨人・細江英公が91歳で亡くなった。


写真家の細江英公さん死去 91歳 三島由紀夫を撮った「薔薇刑」

細江英公は米沢市、土門拳は現・酒田市、鬼海弘雄は寒河江市の出身、、、恐るべし山形県。。。

、、、は置いといて、、、

もちろん、お会いしたことはないので写真や写真集でしか触れたことはないのですが、自分が受けた影響で言うと『VIVO』や『マグナム・フォト』というのは切っても切り離せない。

直接的な影響も面白いし、その作家のルーツやその後のフォロワーをたどるのもまた面白い。写真に限らず、音楽や絵画もそう。

世代だけじゃなく様々な業界の横断もあったりするし、点だけじゃなく線としても見てみよう!

さて、僕は細江英公の弟子である森山大道の影響を強く受けたが、さかのぼって「この人の師匠ってどんなんなのよ??」と写真集ももちろん読んだ。

「写真集は観るに加えて読まなければならないんだよ。読み解く。そう、読み解くんだよね。そして誰かに語る。それでようやく自分の中に定着する。現像・停止・定着だね。ふふふ」

と、いつものように煙に巻いたように教えてくれたのは当時通っていた写真専門学校の校長だった。

たとえ分かりにくい表現だとしても、理解しようと手を伸ばしてみる。『箱の中身は何でしょね』的に、答えは暗中模索で自分の手で掴むもの。

誰かから情報を受け取っただけで撮れた気になって何も考えない人の写真って、、、ね。

と、余計なコトも書きつつ、、、

観る人にアレやコレや語らせたくなる作品も素晴らしいし、観る人が絶句して語ることが出来なくなる作品もまた素晴らしい。

この先、何億枚撮っても偉大なる巨人たちには追い付けそうにないけど、でも1mmでも何かしらの可能性があるのなら、死ぬほど撮りながら写真道を歩んでみようと改めて思った次第です

あ、そうそう

一枚の写真でも写真展や写真集でも何でも、作品として世に出す際には「読み解こうとする人」に甘えちゃいけないな、とも。

多くの人は読み解いてくれる写真好きな人種ではない。

「ワシの写真はこんなんだから勝手に読み取ってくれい」「分かる人にだけ分かれば良いんだわいな」「タイトルもキャプションもいらん。無題、無題!untitled!」を、様々やりつくした大御所でもないのにやってしまうのは、正直エゴでしかないと思う。

写真を分かりやすく通訳してあげる言葉、読み取らせるヒントとしての言葉を学び続ける必要もある。

ああ、写真道にゴールなんてない。

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