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日本らしさはどこにあるのか?―本居宣長【百人百問#008】

歌舞伎、富士山、サムライ、芸姑。アニメ、ゲーム、コスプレ、Kawaii。奥ゆかしさ、礼儀正しさ、ハイコンテキスト、手先が器用、勤勉。村八分、空気を読む、舶来物好き。日本の特徴を改めて眺めてみると、極東ジパングの奇異な姿が浮かび上がってくる。そこに欧米人たちが、オリエンタルな世界観やマジカルな印象をもつのも頷ける。

その「日本らしさ」の由来を深掘っていくと、アニメのルーツは浮世絵かもしれないし、ゲームのルーツはアニミズムかもしれない。ハイコンテクストのルーツは農耕文化かもしれないし、舶来物好きなのはマレビト信仰が理由かもしれない。真偽はわからないが、現在の日本を特徴づけているルーツを辿るのはひとつのエキサイティングな旅になるだろう。

では、「日本らしさ」をかたちづくったルーツは何なのだろうか?大元はどこにあるのだろうか?今日はそんな日本の奥を探ってみたい。

そもそも日本のルーツというのは難しい。
アメリカは建国が具体的にわかっているし、中国は史書によって古代からの歴史が紡がれている。しかしながら、日本は「魏志倭人伝」のような中国の文書に依存するしか無く、卑弥呼の正体も邪馬台国の所在地もヤマト王権の前身もよくわかっていない。

とはいえ、島国ということで、いつからか大陸から人々がやってきて、独自の文化を醸成した。そもそも縄文時代、弥生時代、古墳時代と日本は長らく「無文字社会」だった。文字での痕跡が無く、口承や遺物からしか過去を推測できない。写真家の杉本博司は文字がなかった期間の長さが日本に芳醇なイマジネーションをもたらせたと語っているし、岡本太郎も縄文の想像力に魅了された一人だった。

ようやく大陸から「漢字」が伝来し、使われた痕跡があるのは、4世紀か5世紀頃だったという。縄文時代は約1万年前だし、稲作は前300年ごろ、卑弥呼は2世紀ごろのことだと考えると、随分と文字を使わず社会を築いてきている。

ちなみに、漢字自体は紀元前1300年頃の殷の時代に生まれたと言われているので、その約1800年後に日本は文字を獲得したことになる。そうすると、当時の日本人としては、文字を持たずに、コミュニケーションを取り、社会を築き、思索を深めている。そこに後から文字が当てはめられた。

そこで生まれたのが「万葉仮名」だった。
「八雲立つ」を「夜久毛多都」と書くような当て字スタイルだ。「夜久毛」の漢字には意味が無く、「音」だけを活用している。そこから、仮名が生まれていったのは多くの人が知るところだろう。

つまり、日本語にはもともと「やくも」という音があり、「夜久毛」を当て、「八雲」という熟語になっていく。「かく」には「書く」「描く」「掻く」などの漢字が当てられている。つまり、日本古来の言葉は「やくも」であり、「かく」である。そこに「八雲」や「書・描・掻」という外来のコードが当てはめられ、表現されたに過ぎない。

いまの教育では漢字を使うことが大人であり、常識であり、よりスマートであるという認識がある。だからこそ漢字の練習が学校に残り続けている。しかしながら、民俗学者の柳田國男や国文学者の中西進は、漢字依存になりすぎてしまうことに警鐘を鳴らしていた。

柳田は「どんな字病」と呼び、いちいち漢字でどう書くのかを気にしすぎる慣習のことを揶揄した。中西は「かく」という大和言葉に「書く」を当ててしまうことで、もともと土器を引っ"掻"いていた歴史を忘れてしまうことを懸念した。「かく」が持っていた身体性と連想性が失われてしまう。この問題意識は福田恆存(#006)の「現代かなづかいによる歴史の断絶」と同じものだろう。

たとえば、鼻と花と端はどれも「はな」だし、盛り(さかり)、幸い(さきはひ)、岬(みさき)、咲く(さく)、酒(さけ)は、「さく」という言葉のイメージから分岐している。咎(とが)、尖る(とがる)、研ぐ(とぐ)、棘(とげ)は「とぐ」が派生した言葉だ。これらを眺めているだけで、「はな」「さく」「とぐ」のイメージがさまざまに想起される。日本語はもともととても連想的で一意的ではない言葉だったのだ。

さて、日本の大元に話を戻したい。
つまるところ、漢字を見ていても日本のルーツや日本の奥に行くことはできない。それはあくまで中国のルーツでしかない。日本の大元を探るためには「書」と向き合うのではなく、「か・く」と向き合わなければならないのだ。

この日本のルーツを探し続けたのが本居宣長だった。
本居宣長は1730年生まれの国学者である。そもそも「国学」は日本固有の学問を模索した学問だった。中国からの輸入ではなく、日本独自を探していた。

宣長の方法は「漢意(からごころ」を排し、「古意(いにしえごころ」と向き合うというものだった。「漢意」とは簡単に言うと「漢字」であり、輸入した文字や思想のことである。つまり、宣長が目指したのは、中国から輸入した文字や思想を排除し、日本古来の思想を探るというものだった。

しかしながら、これが難しかった。先述したようにそもそもが文字の輸入から中国に依存していた。つまり、日本で書かれているものの"すべて"が中国/漢字の影響下にある。そんな時代が当時すでに千年以上経過していた。ここから改めて「漢意を排す」と言われても、もはやそれは「思考するな」と言っているようなものだ。

現代で言うと、横文字/カタカナを使わずにパソコンと向き合うようなものだ。「インターネット」「コピペ」「デスクトップ」という言葉を使わずに、パソコンを説明するなんて、それほど無茶なことを考えたのだ。

宣長が向き合ったのは、最も古い文章の一つである日本の神話「古事記」だった。当時すでに漢字で書かれていた古事記を読みながら、そこにある「漢意」を排除し、「古意」を炙り出そうとした。

どうやったかと言うと、とても地味なもので、一音ずつと向き合ったのだ。「書く」ではなく「かく」と対峙した。たとえば、古事記の「神代一之巻」の冒頭である「天地初発之時、於高天原成神名‥」を見てみる。

最初の二文字は「天地」である。いまでは「てんち」と読んで、すぐに「天地創造」などをイメージするので、スッと読めるだろう。しかし、それはすでに漢意に囚われている。それでは日本の大元にはたどり着けない。

そもそもこれは「アメツチ」と読む。口伝で古事記を伝えたと言われる稗田阿礼は「アメツチ」と読んでいたはずなのだ。では、「アメ」とは何か。宣長は「アメ」にまつわるあらゆる文献に当たり、こう説明する。

そらの上にありて、あまつかみたちの坐(まし)ます御国なり

つまり、「アメ」とは空の上の世界で、「あまつかみ」という神様がいる場所のことである。”たち”と言っていることから多神教的な世界観であることが想起される。また、仏教では「西方浄土」と言うように、あちらの世界は西にあるが、古事記の神々は「空の上」にいる。これだけでも、古代の日本人が創造した世界観が少しずつ分かってくる。

次に、「地」に進む。「ツチ」と読み、ツチは「ひじ」(泥土)がかたまって「くに」になった状態だと宣長は推理した。「ツチ」は小さければ泥であり、大きければ陸地になる。さらに、「天地/アメツチ」となると、地球全体を指すことになる。「ツチ」にまつわる故事の記録や万葉集の歌などから大量のヒントを探し出す。

こうやって一文字ずつ進んでいった。その果てしなさは計り知れない。宣長は古事記の研究を30代半ばから始め、72年の生涯のおよそ半分をこの古事記の翻訳に費やした。40年ほど、この作業を繰り返したと思うと、まるで修行のようだ。宣長は一文字ずつ、古意を探し続けたのだ。

先程の「天地初発之時、於高天原成神名‥」で特に宣長が注目したのは「成(なりませる)」という言葉だった。宣長によると「ナル」には3つの意味があるという。一つは無からものが生まれいづること、二つには、別のものにヘンゲすること、最後は神が国を産んだりして、成就すること。

ということは、「成神(なりませるかみ)」とは、自ら生まれもするし、別のものに成りもするし、国を産んだりもする神ということになる。ここには我らが当たり前に感じる「八百万の神」の姿や千変万化する怪異の姿が垣間見える。

さらに、「神」もすんなりと理解したりはしない。
「迦微」と書き、「カミ」と読む。これについては「未だに分からない」と書いているものの、神々の存在を「貴きもあり賤しきもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪しきもあり」と言っている。全知全能の善の存在ではなく、悪しきものも含まれると言っている。神も鬼も「カミ」であり、鬼滅の刃も呪術廻戦も「カミ」である。これによって西洋とは異なる日本的な神の理解に近づいていく。

こうして、宣長の一行をトレースするだけでも生半可ではない。彼の想像を絶する尽力によって、現在我々は古事記に容易にアクセスできる。宣長以前には一部で古事記偽書説もあり、重視されていなかった時代もあった。しかし、宣長によって改めて古事記が表舞台に登場し、現代へのバトンを繋いだのだ。

宣長は同時に「源氏物語」も探究する。20代で関心を示し、古事記の研究を経て、再び源氏に戻っていく。これを見て小林秀雄は「本居さんはやはり源氏ですよ」という言葉を残している。宣長は源氏に「もののあはれ」を見出す。そこに日本の大元を発見する。

「もののあはれ」とは不思議な感覚である。言葉だけ見ると、「哀れ・憐れ」はとても不憫で可哀想なものだ。英語だと「pity」「ridiculous」「poor」「miserable」「pathetic」など悲観的なイメージだろう。ここでは、宣長が「もののあはれ」をどう捉えたかの詳細は割愛する。一言でいうなら、「揺れ動くこころ」のことだっただろう。それは万葉集にも古今集にも源氏物語にも通底する日本的情緒の大元である。

日本らしさはどこにあるのか?
それは漢意を排した古意にこそ見出だせると本居宣長は看破した。その向こうに源氏の「もののあはれ」を発見した。では現代にどこまで日本らしさは残っているのだろうか、とまた次の問いが生まれる。


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