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日本語は失われたのか?―福田恆存【百人百問#006】

言葉の劣化というのはいつの時代でも嘆かれることだ。「やばい」「かわいい」でしか表現できないことに憤慨する人もいる。とはいえ、「最近の若者は云々」というのは吉田兼好も言っているし、言葉は変わりゆくものなのだろう。

日本語という歴史において、大きく変貌を遂げたことが2度あった。明治維新と敗戦である。明治期には列強諸国に対抗するために中央集権化を推し進める必要があり、その言語的な統制として「標準語」が整備された。国語学者である上田万年が『国語のため』ではじめて日本語における「標準語」の必要を説いたのだ。

そして二度目が戦後である。
GHQにより漢字の制限やローマ字の使用を推進する動きがあった。漢字の制限に関しては、その難しさから非効率であるという指摘もあったそうだ。ローマ字の推進に賛同する声も多かったようだし、志賀直哉は「世界で一番美しいフランス語を導入したらどうか」という趣旨の提案もしたそうだ。

そのような極論は見送られたものの、大きく変わったのが「歴史的仮名遣い」の廃止と「現代かなづかい」の採用、つまり「新かな・新字」の指令だった。この動きに大きく反発したのが国語学者の福田恆存(ふくだつねあり)だった。

いまとなっては歴史的仮名遣いは古文の授業で触れたり、夏目漱石や太宰治の文章に登場してきて、読みにくさを助長する言葉なので、現代かなづかいになって良かったと思うだろう。しかし、そこに福田恆存は危うさを指摘した。

福田恆存は「現代かなづかい」の矛盾をことごとく論破していった。それはいま我々がなんとなく感じている日本語の難しさに通底する。たとえば、「私は」の「は」、「夢を」の「を」、「未来へ」の「へ」。なぜ「わ」「お」「え」ではないのだろうか。「例外」だから良いのか。その一貫性の無さに福田は憤る。「こんばんわ」と書くと言葉に厳しい人は指摘するだろうが、そもそもなぜ「こんばんは」なのかは、戦後のルール変更なのだ。

他にも、よく国語のテストで出題される「おとうさん/おとおさん」問題である。「う」なのか「お」なのか。「おうじ/おおじ」「おうきい/おおきい」「行こう/行こお」「こうり/こおり」。

だんだん気が狂ってきそうだ。ここにも一貫性の無さを指摘する。「おーじ」のように「お列」の長音表記で「お」と「う」の2つが共存している。これは歴史的仮名遣いの「ほ」が「お」になったものらしい。つまり、歴史的仮名遣いを覚えていないと、「う」と「お」の違いは分からないという暗記問題になっているのだ。

さらに、福田の弁は止まらない。
「つまずく」と今では書くが、本来は「つまづく」である。なぜならば、「爪+突く」からきているため、「つく」が「づく」になっている。語源から考えると自然になるのだ。「きずな」も同様で、もともとは「生+綱」だったため、「きづな」が本来的である。

ここで福田の核心に迫る。現代かなづかいのその場しのぎの論が許せないこともさることながら、過去から現在へと続いてきた言葉が断絶してしまうことを懸念したのだ。

「ひざまづく」は「膝」と「突く」だと意識してゐるものにたいして「ひざまずく」と書けといふのは、その生きてゐる語意識に死を宣告、あるいは暗示、命令するやうなものです。

福田恆存『私の國語教室』p25

もちろん話し言葉に合わせての変更だったため、実用には合っていた。しかしながら、書き言葉には過去を未来に繋げるという役割もある。表記を変えてしまうと、過去からの断絶が生じてしまうのだ。「訪れ」という語は「おとづれ」であるからこそ、「音連れ」に繋がり、古代の風景が想起されるのだ。

文字に關して専門家だけの世界を與へて、それで一體どうなるといふのでせう。それで古典が「文化遺産」として繼承されたつもりなのでせうか。専門家だけが昔のかなづかひに習熟し、漢字をたくさん勉強して、書齋のなかで古典を樂しんでゐたからといつて、一體そんなことが日本の文化とどういふ關係があるのでせうか。(中略)一番大事なことは、専門家も一般大衆も同じ言語組織、同じ文字意識のなかに生きてゐるといふことです。

福田恆存『私の國語教室』p305

福田のこの弁の鋭さや言い切りの良さは読んでいてとても心地よいが、この継承の問題は仮名遣いだけではない。

「戻る」という漢字のつくりがなぜ「大」なのか?
それはもともと「犬」だったという。つまり「戸」に「犬」が戻っている状態なのだ。そうすると、突然「戻る」が意味を持ち始める。

この話は以前、小説家の池澤夏樹さんにインタビューした際に教えてくれた逸話だった。彼が日本文学全集の『日本語ために』を出版した際のインタビューだった。この全集にもちろん福田恆存も収録されている。池澤は本書で日本語の断絶についてこう語る。

文字というものの身体性がどんどん失われてよいかという問題もある。人間の文化ぜんたいから肉体が希薄になって行くように思われる。(中略)とは言うものの、実際に今から歴史的仮名遣いに戻るのがむずかしいのはぼくもわかっている。無数の矛盾を残しながら、もう我々はここまで来てしまった。歴史とは常にそういう一回的なものなのだろう

池澤夏樹編著『日本文学全集 日本語のために』p.244より

福田恆存が憤慨し、池澤夏樹が懸念する日本語の本来のかたち。
すでに失われてしまっているものも多くはあるものの、まだ過去に戻る手段は残されている。完全に我々が過去の日本語を忘れないうちに、歴史にアクセスする方法を大事にしたい。


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