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近くて遠い。

(カラダが元気だと、ずっとは眠れないんだな)

わたしは朝起きるのがとても苦手だ。もし許されるなら何時間だって眠っていられると思っていた。でもそれはまちがいだった。ちゃんと疲れないと、ぐっすりなんて眠れない。

かべの時計に目をやると、まだ午後二時をすぎたところだ。子ども部屋のベッドに大の字になったまま、わたしは天井を見上げている。なんの変哲もない見なれた景色だけど、平日のこんな時間に見ていることが不思議な気がする。

二週間ほど前、朝起きようとしたら吐き気がした。頭も痛い。体温計を脇にはさんでみたものの、熱はなし。

「夏風邪ひいたのかもしれないね」

と母さんが言った。その日は一日中眠り続けて、気づいたら夕方になっていた。疲れがたまっていたのかもしれない。夏の大会に向けてバレー部の練習も厳しさを増していたから。期末テストが近づいて、睡眠時間をけずっていたから。一日休憩したら疲れも取れた。次の日からまた登校するつもりだった。でも、そうはいかなかった。

「学校に行くの、カラダが嫌がってるのかもね」

ため息まじりに母さんが言った。始めはやたらと部活のことが気になった。先輩にズル休みしてると思われてたらどうしようとか、次の試合は補欠になるのかなとか…。期末テストは休んでいる間に終わってしまった。テストを受けないなんて選択肢、わたしの辞書にはなかったはずなんだけど。

(このまま、学校行けなくなっちゃうかもな)

今のわたし、部屋にひとりっきりポツン、だ。誰とも何ともつながってない気がする。この部屋ごと世界から切りはなされてしまったみたい。普段は考えないようなことが、この二週間ずーっと頭の中を回っている。自分はどうやって生きてきたんだろうとか、なんで此処にいるんだろうとか、この先何を楽しみにやっていけばいいんだろうとか。友だちなんて本当はいなかったのかもなあとか、答えのないことばっかり…。

ふと、机の上にあるカレンダーを見たとたん思い出した。

(もうすぐ、ふゆの誕生日だ)

すっかり忘れてた。あと二日しかない。もうずいぶん長いこと冬美の顔を見ていない。元気にしてるかな。起き上がって机の引き出しをガサガサと物色した。あった、あった。見つけたのは小学校時代の交換日記だった。

  **

わたし(黒川千夏)とふゆ(白石冬美)は保育園からの幼なじみだ。お互い一人っ子で、よくケンカもした。「ごめんね」「…」「ごめんね、許して」「…」ケンカになると、冬美はぜったいにあやまらない。泣きべそになりかけたわたしを見て、

「冬美ちゃん、もういい加減、千夏ちゃんと仲直りしてあげなさい」

と、担任の久保先生がしょっちゅう間に入ってくれた。

別に冬美がいじめっ子だったわけではない。わたしが水色のクレヨンをなくしたことがあった。空をぬるのに使う一番お気に入りの色だった。教室中どこにもなくて、あきらめて園庭で遊んでいると、ポンと肩をたたかれた。冬美の小さな手のひらに、短い水色のクレヨンがのっていた。だまって探し続けていたらしい。

「どこで見つけたの?」
「大石くんのお道具箱の中」

小学校に上がってからは放課後、二人でよく駄菓子屋さんに出かけた。商店街のはしっこにある店までは、歩くと遠かった。冬美は自転車に乗れなかった。わたしが自転車を貸してやると言っても、冬美は頑なに断った。

「練習しなよ。自転車ならすぐなんだから」
「いや。あたし自転車いらない。だって歩くために足がついてるんだから」

帰り道、よく公園のベンチにすわっておやつを食べた。わたしはうまい棒とかよっちゃんイカとか辛いものが好きで、冬美はフルーツもちとかチロルチョコとか、ラムネとか、甘いものばかり買っていた。沢山歩いた後のおやつには、小さな冒険をし終えたような満足感があった。

「みて。夕焼けがきれい」
ピンクとオレンジ色にそまった空がしずかに暗くなっていくのを、二人だまってながめたこともある。

「交換日記しよ」
六年生になった時、そう言い出したのは冬美だった。読書もきらいで作文も苦手で、字も汚い冬美が?とわたしは思った。でも言わなかった。冬美は言い出したら人の意見なんて聞かないから。わたしは新しいノートを買ってきて、表紙に「交換日記」と書き込んだ。

予想通り、ノートはいつも冬美の番で止まった。わたしが二日で仕上げて渡しても一週間以上、放ったらかしだった。一回につき一人一ページと決めていたけど、冬美のページに文章らしきものはなかった。好きな歌手の歌詞を写したり、絵を描いたり、自分のサインを何度も練習していたり。それは落書きにしか見えなかった。

(ふゆは、いーっつもワガママなんだから)

このままズルズル続けても時間のムダだ。冬休みにわたしの番になった時、ノートをこっそり引き出しの奥にしまい込んだ。これでおしまい。なかったことにしよう。三学期になっても冬美からノートの話は出なかった。ケンカせずに交換日記に終止符を打てたことに、わたしはホッとした。

  **

一年前、わたしたちは中学生になった。生活の何もかもがガラリと変わった。たった一年、学年が上がっただけなのに。みんなが同じ制服を着てるだけで、毎日学校に通って勉強することは、小学校と変わりないのに。でも全然ちがった。生きてる空気がちがった。わたしはバレー部に入った。

「先輩、おはようございます」
「お疲れさまでした。先輩、失礼します」

たったの一年か二年、年上の人を先輩、先輩って。ペコペコしてる友だちを見ておかしいなって思いながら、わたしも同じようにやった。だってそれが中学生なんだから。

冬美は美術部に入ろうかどうしようかと、ずいぶん悩んでいた。
「良さそうじゃん。先輩もやさしそうだし」
「でもあたし、自分で好きなように描くのが好きだから」

決心がつかないまま一学期が終わり、冬美はそのまま帰宅部になったようだ。「ようだ」というのは、もうその頃には冬美とおしゃべりすることもほとんどなくなっていたから。わたしは忙しかった。クラスのちがう冬美のことまで気にかけている余裕がなかった。自分のことで精一杯だった。

冬美が学校を休んでいると知ったのは、三学期に入ってからだ。
「白石さん、不登校らしいよ」
と、同じクラスの友だちが教えてくれた。むねがざわついた。どうしたんだろう。何があったんだろう。何度も電話しようと思ったけどできなかった。なんて言って声かけたらいいか分からなかったし、まただんまりされたらわたしの方が苦しくなる。

(大丈夫。ふゆはマイペースでワガママなだけだから)

わたしは自分に言い聞かせた。

また春がきてわたしは二年生になった。授業中ぼんやり窓の外を見ていると、小さな女の子が一人、門をくぐって校舎に歩いていくのが見えた。スタスタと小走りで歩くその子が冬美だと、わたしは一目で分かった。週に何回か保健室登校を始めたらしかった。でも会いには行かなかった。冬美の存在がいつしか遠くなっていた。

  **

ピンポーン。玄関のチャイムが鳴った。やばい、うっかり眠ってた。もう四時?宅急便かもしれないとあわてて扉を開けると、立っていたのは私服姿の冬美だった。

「やあ」
右手を小さくあげて、冬美が言った。
「どうしたの?」
「今日、ナツの誕生日だなと思って」
そうだった、今日は十四歳の誕生日。わたしとふゆは誕生日が二日ちがいなのだ。

「おやつ持ってきた」
冬美は左手にもった小袋を差し出した。歩いて駄菓子屋さんまで行ってきたらしい。

「遠かったでしょ?」
「すぐだよ。歩いて十五分。ナツの好きなブタメンも買ってきた」

メガネの奥で、冬美の目がにやりと笑った。台所でオレンジジュースをコップに注ぐと、二人そろって子ども部屋に向かった。並んで歩くと、冬美の背が少し伸びてるのがわかった。わたしは押入れからスーパーマリオを引っ張り出した。

(わたしが学校行けてないこと、知ってるの?)
(ふゆは今、学校行ってるの?)

聞きたいことはあるのに、喉から先に出てこない。こっちは長い空白期間が気になって仕方ないのに、冬美はまるで気にしてなさそうだ。考えがあちこち飛んでると、手元に集中できない。どんどん冬美に差をつけられた。

「相変わらず、ナツはへったくそだねえ」
「何よ、今から本気出すところよ」

もういいや、久しぶりのマリオなんだから。楽しんだもの勝ちよ。そう思うと肩の力がぬけた。それからも会話らしい会話はなかった。エイっとかクッソーとか、短い言葉を連呼しながら、あっという間に時間が過ぎていった。ガチャガチャと玄関から音がした。

「ただいま」
「うわっ、母さん帰ってきた」

玄関でしゃがんで靴をはいている冬美の細いうなじが目についた。肌が真っ白。日に当たっていない証拠だ。

「今日はありがと。これ、何か分かる?」
わたしは部屋からこっそり持ってきたノートを差し出した。
「…交換日記?」
「ごめん。ずっと止めてた」

古びたノートを冬美がだまって受け取ったから、わたしは聞いてみた。
「また始める?」
「…考えとく」

外に出てバイバイと手をふってからも、しばらく見送っていた。冬美の後ろ姿はもう小学生じゃなかった。

(わたしたち、ちゃんと成長してるんだ)

部屋にもどると、さっきまで冬美がいた気配が残っていた。空気が少し柔らかくなった気がした。




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