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#96落とし物。

「ああ、ない、ない、どこにもない」

今回どこかで落としてしまったのは、使い心地のよいハンドタオルでした。先週末、半年ぶりに家族で泊まりの旅行に出かけたのです。住みなれた場所を離れて、自然を探索し、心身ともにリフレッシュしたよい時間を過ごすことができました。ところが帰りの車の中で、バッグに入れていたはずのタオルが見当たらないことに気づいたのです。

「あちゃー」(わたしの心の声)

たとえ高価なものではなくても、普段愛用しているものほど、なくした時の喪失感は大きく感じられます。まるで旅行を楽しんだ代償であるかのように、ハンドタオルはわたしのもとを去っていってしまいました(さようなら、ハンドタオル!)。

子どもの頃から、落とし物はわたしたちの日常にあふれています。幼稚園でも小学校でも「落とし物箱」が学校のどこかしらに設置されていて、なくしたと思っていたものを箱の中に見つけた時の喜びは、「(声を出さない)キャー!」以外の何ものでもありません。

個人的に落とし物をしやすいタイプではないのですが、なぜか心が浮き足立っている時に限って、身の回りのものをなくす癖があります。心配事で頭がいっぱいの時や、落ち込んでいる時にそうであるなら、自分でも納得できるのですが、反対にすごく楽しい時、幸せな気持ちに満たされている時にもなくしてしまう。これは一体どういうことだろう。

ここでおばさん探偵が、いつものネット検索を開始してみましょう。

カチカチ、カチカチ。

2021年の記事によると、都内の落とし物は年間280万件を超えるそうです(これは警察庁による前年に届出のあったものをもとにしています)。落とし物のトップ5は、1位が証明書類、2位が有価証券類、3位が衣類・履物類、4位が財布類、5位がかさ類なのだとか。この統計に基づいて、心理学者の芳賀繁さんという方がコメントされていました。

世の中の落とし物は大きく二つに大別できるそうです。ひとつが「歩いている時にポケットから落ちた」「カバンから定期を取り出す時に家のカギが落ちてしまった」などの落とし物。もうひとつが「コピー機の中に書類を忘れてしまった」「電車の網棚の上にバッグを置いてきてしまった」などの忘れ物。

その理由として、心のゆとりをなくしている時はとくに落とし物をしやすい。「ながら作業」をしていると注意が散漫になってリスクが高まるとのことでした。

確かにそういうこと、わたしにも覚えがあります。心のゆとりがなくなる理由も、人それぞれだと思うのですが、芳賀さんが指摘されていたのは「スキマ時間を活用しようとしすぎることで、注意があちこちにとんでしまう」ということでした。

「なるほどねえ」

この部分を読んだ時、わたしは「むむむう」とうなり声をあげてしまいました。スキマ時間を有効に使うためにどうすべきかといった内容の記事を、少し前まで目にすることが多かったからです。ほんとうは、何もやらないで、ぼーっとしたり、のんびりしている時間が、わたしたちの肉体(脳も含めて)にとって、どれほど大切なものであるか。その一見無駄に思える時間が、実は生活に潤いを与えていることを忘れかけていました。

「ボーする(ボーッとする)時間」が実際にどのようにわたしたちの役に立っているのか。それは目に見えるわけでも、数値で示せるわけでもありません。わたしたちはつい、数値で示すことのできない事を軽視しがちです。ですがこの膨大な落とし物の数に、現代人の心のゆとりのなさが反映しているといえるのかもしれません。

(個人的には、仕事していた頃はボーする時間を能動的に味わっていました。働いて疲れている状況だとボーすることに味わいがありました(笑)。専業主婦である今は、ボーする時間としていない時間の区別がつきにくく、ボーを深く味わえなくなっています。ちょっと悲しいです)

話を始めに戻すと、わたしは落とし物をしょっちゅうしているわけではありません。でも落としてしまった時には、心がスッと素になるのを感じます。「当たり前だ」と思っていたものが「当たり前じゃなかった」という現実に直面した感覚が、体いっぱいに広がります。この小さな衝撃は、おそらく必要なものなのでしょう。

「旅行して楽しくすごした時間は終わった。さあ、また日常の生活に戻りなさいね」

落とし物がそう教えてくれたのかもしれません。ああ、次からは物をなくさないように、心のゆとりを失わないように気をつけたいところです。




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