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#72アリを見ない。

「うひゃあ、すごい雑草王国だ」
冬の間は息をひそめていた雑草たちが、実家の周りを取り囲んでいます。年によってよく茂る雑草のタイプも変化していくのかもしれませんが、今年はピーピー豆(カラスノエンドウ)の勢いがすさまじく、わたしは空き時間を利用して、ワークマンで購入した作業ズボンと長靴を履き、頭に麦わら帽子をかぶって庭の草取りにいそしみました。

この時期、何がありがたいかと言うと、まだ虫たちの活動が盛んになってはいないことです。顔のまわりをブンブンやられると、こちらのメンタルが先にやられてしまいます。それに春のうちにがんばって雑草を抜いておけば、次に帰省した時の負担も軽くなります。市民農園を一年前から借りているおかげで、農具の使い方も上手くなってきていることもあり、がんばった分だけ庭をすっきりと片付けることができました。

「そう言えば、アリを見ないな」
庭の畑で遭遇するのは、ミミズやダンゴムシ、貝殻虫などで、昔からアリを見かけることは少なかった気がします。それとも子どもの頃にはすぐに目についたアリへの注意力が、落ちているせいなのかな。アリといえば、わたしには忘れられない思い出があるのです。わたしが小学校低学年の頃のこと。当時は土曜日にも学校がありましたが、授業は午前中のみで給食はありませんでした。土曜日は、仕事をしていた母がおにぎりやおかずを平たいお皿にならべた昼食を用意してくれていました。わたしはその昼食をいつも楽しみにしていました。美味しいものを食べ、それから山の上のピアノの先生のところへ、一人でレッスンに出かけなくてはならなかったからです。

ある土曜日、学校に行く時にうっかりと家の鍵を忘れてしまいました。「どうしよう…」でも大丈夫。その頃住んでいた家は、リビングの窓が庭の方向にあり、そこの窓は鍵をかけていなかったのです。庭は通りに面していなかったので、窓をあけてよじのぼれば、家に入ることができたのです。身軽な子どもだったわたしは、木の椅子を納屋からとってきて、窓に手をかけよじのぼり、泥棒気分で自分の家に侵入しました。ちいさな冒険に満足して、頬を紅潮させながら台所に向かいます。そしてテーブルの上に置いてある昼食のお皿を見ると、「あれ、なんだこれは?」

どこから入ってきたのか分かりませんが、黒々とした線が、お皿の上まで続いています。アリの行列です。

「うわあああああ!」

大声で叫んだわたしの顔は、おそらくムンクの叫びのような顔になっていたことでしょう。お皿の上でアリがたかっていないオカズはおにぎりだけでした。わたしはおかずを全て捨てて、残ったおにぎりを泣く泣く口にしてピアノの教室に出かけていきました。それ以来、アリはわたしの天敵となったのです。

そんなアリに再び、愛情らしきものを感じ始めたのは、大人になってから。父が美術館で買ってきた熊谷守一さんの本を見るようになってからです。周りの人たちに仙人と呼ばれるほど、独特の風貌をした髭ぼうぼうのおじいさんなのに、瞳の輝きは星のようで、藤森武さんが撮られた『独楽』という写真集を目にして、たちまちファンになってしまいました(2018年には『モリのいる場所』という映画が創られていて、山崎努さんと樹木希林さんが夫婦役を演じておられます)。

50代になって東京近郊に家を持った熊谷守一さんは、敷地から一歩も出ない生活を何十年と続けたそうです。そして多くの時間を家の庭で過ごされたそうです。小さな生き物を飼ったり、木や草などの植物を時間をかけて観察し、それらを絵の題材にされたのでした。

「地面に頬杖をつきながら、蟻の歩き方を幾年もみてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです。」

小さなサイズの絵の中に写し取られた生き物たちの色合い、形、その素晴らしさは、何時間でも見ていて飽きない、不思議な魅力をたたえています。わたしがアリ嫌いのまま人生を終わらなくてすみそうなのは、熊谷さんのお陰です(笑)。ちょうどこんなことを書いていると、Eテレの地球ドラマチックでアリの王国という番組が放送されているところでした。ヤマアリとサムライアリとが、自分たちの巣と卵たちを守るために壮絶な闘いを繰り広げています。

「アリよ、すごい姿を見せてくれてありがとう」
それにしても、我が家の庭のアリたちは一体どこへ行ってしまったのでしょう。




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