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#15底見えの覚悟。

「ねえ、これ見て」
ミドリーがうれしそうに、近寄ってきます。
「どうしたの?」
「とうとうこのアイシャドーが、底見えしたの」
手のひらの上にのっているのは、使いかけのアイシャドーです。四色ほどあるカラーのうち、一色のカラーの真ん中に、ぽっこりとクレーターのような穴が空いて、容器の底が現れています。

「これが底見え?」(私には、初めての用語でした)
ミドリーは、満面の笑みでうなづきます。自分が、まるで偉業を成しとげたかのような、「どうだ!」的オーラを放っています。コスメ好きの若い人たちにとって、「底見え」という現象は共通用語なのですね。それは、自分が日々、愛情をもって化粧道具を使い続けてきた証なのだそうです。

それを聞いて、化粧に関連した昔の記憶をたぐりよせると、子どもの頃に見ていた『ひみつのアッコちゃん』というアニメを思い出します。毎回、アニメの山場で、子どものアッコちゃんがコンパクトを取り出し、
「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン」
と、呪文を唱えては、アイドルや婦人警官など、さまざまな大人の女性に変身し、事件を解決していくのです。

大切にしていた手鏡を割ってしまったアッコちゃんが、鏡のためのお墓を作ってあげたところ、鏡の妖精からお礼に不思議な力のあるコンタクトをもらうのですが、この話の中には、化粧をして素の自分よりもほんの少し素敵な女性に変身する、という化粧の本質をついている部分もあるのかなあとも思います。

いつも、必要最低限のメイクしかしていない私の顔を見て、ミドリーは、
「母ちゃんは、メイクの一番楽しい部分を経験しそこなっているよ」
と、半ばあきれ顔で言います。たしかに私は、何度練習しても、満足な眉毛にしあげた経験が、一度もありません。左右の眉がちぐはぐににならないように、線をひくだけで、精一杯なのです。上手くかけないので、やけっぱちで「眉毛なんて描いときゃいい、とりあえずあればいい」とすら思ってしまう日が、半分以上あるのです。楽しめるような心のゆとりは皆無なのです。

ミドリーは、「顔は真っ白いキャンパス」だと断言します。絵を描くのが好きなミドリーは、メイクを描画と同レベルで経験しているらしいのです。
「メイクっていうのはね、一日に何回もできないの。塗ったり取ったりしてたら、肌が傷んでしまうでしょ。だからたったの一回、一日に一回しか練習できないの。ていねいに仕上げないと勿体ないでしょ」

たしかに、ミドリーの言う通りなのかもしれません。ミドリーの目には、さまざまなファンデーションの色合い、さまざまなチークの色合い、さまざまなアイシャドーの色合いが、くっきりと見えているようです。私の目に映るのは、ほぼ肌色のファンデーションたち、ほぼピンク色のチークたち、ほぼ茶色のアイシャドーたち。つまり、色の識別もいまいち困難なレベルの私には、メイクを楽しむという行為は、かなり高度だということになるのでしょう。

また、私にとって「底見え」という現象がもつ意味合いは、ミドリーの抱く感覚とは180度異なっています。私の場合、ファンデーションは一旦底見えしたとたんに、周囲に地割れのようなヒビが入り、粉が飛び散りやすい悲惨な状況になりますし、アイシャドーは色が混じり合って、もはや自分がブラシにどの色をつけているのかすら、分からなくなります。

「底見え」が近づいてくると、
「ああ、とうとうこの時期がやってきたか。ここからは粉の崩壊をなんとか阻止するべく、慎重な手さばきで、粉はたきを行わねばならない!」
と、まるで戦闘にでも赴くような、厳しい覚悟を決めている状況なのです。こんな私にどうやって、メイクを楽しめというのでしょうか。

と思っていたところ、遠方に住んでいる妹から、眉のアートメイクなるもののお誘いの知らせが舞い込んできました!神様は、私を「底見え」地獄から救ってやろうと判断されたようです(笑)。今後は年末に向けて、アートメイクを受ける覚悟を固めていこうと思います。




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