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#111保留というスキル。

考えても考えても、答えが見つからない。今の状況ではどうしようもない、と思う悩みや葛藤があります。とくに自分にとって重要な、意味のある物事の多くは、そういう要素を含んでいる気がします。そんな悩ましい思いで頭がいっぱいになりそうになった時、最近のわたしは、

「いいや、置いとこう」

と問題を丸のまま、放置しておくことにしています。時間が経つと状況が少し変化していることもありますし、視界にこれまでは見えてなかったものが入ってきて「な〜んだ、そんなに一大事ってわけでもなかったんだ」と気づくこともあるからです。

何が言いたいかというと、コホン(咳ばらいの音)、

「こんな簡単なことが、若い頃にはまったく出来ていなかった」

ということです。もっと早くに知っていたら、あんなにジタバタする必要もなかったのに。過去の失敗やあやまちが、次々と頭に浮かんできます。でも…若くてエネルギーを持て余しているからこそ、動き回らずにはいられなかったのかもしれませんが。

今よりもう少しだけ若かった頃の自分のことをふり返ると、鍋料理を作っている最中も「もう火が通ったかな」と何度もフタを開けては、中の様子を確認していました。待ちきれなかったのですね。そうすることで、料理によっては鍋の中に充満している熱気を逃してしまい、おいしさが半減することもある、などという知識はありませんでしたから。

「待つ楽しみ」を味わうよりも、答えを真っ先に求めてしまう。「仕上がり」という結果だけにとらわれると、そこに至るまでの「間」のプロセスに気持ちが向かなくなります。すると、そこに確かにあったはずの「待つ楽しみ」が消えてなくなってしまいます。

「ああ、勿体ないことをした」

それに悩みや苦しみというのはその奥に、人生を豊かにする栄養みたいな、自分にとって意味のある大事なものも含んでいるのだということも、やっぱり若い頃には気づきませんでした。無駄なもの、あると不快なものだと信じて疑いませんでした。

悩みや苦しみを生み出す状況をパン種だと想像し、発酵させる時間を十分に保つことで、いつかフカフカの美味しいパンが出来上がったかもしれないのに。即席の幸せを求めるあまりに、或いは心を軽くするために、栄養たっぷりのパン種をそうとは知らずに「役に立たない、使えない」とグチを言っては捨ててしまおうとしてきた我が半生。

待つために必要なことは何だろうかと考えてみると、多分、昔のわたしは「そりゃあ、忍耐だわ」と思ったことでしょう。じっとこらえて辛抱強く待つ。その言葉のイメージ通りに。でもちがいますね。まったく違っていました(笑)。

待つために、それも楽しく待つために必要なのは、良い意味でのあきらめ(諦観)と信じることでした。自分ひとりの力で、自分だけの努力で物事を変えていこうとするのをあきらめて、何か大きな、目に見えない力が働いているこの世界に、わたし自身も含まれていて、その流れの中で守られながら生きていることを実感する。そうすることで、リラックスしながら状況を見守る目が育っていくのでしょう。無駄な力が抜けることで、まなざしが深くなったり、視野が広くなったりするのでしょう。それは自分が賢く変わったからではなくて、元々もっていた(でも使えていなかった)自分の視点をうまく利用できるようになったということなのかもしれません。

楽しく待つというのは、漫画を読んだり、音楽を聞いたり、本を読んだり、お菓子を作ったり、自分が楽にできることをつらつらやりながら、その時間をゆっくり味わうこと。たったそれだけでいいみたいです。




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