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070.その価格8万8千円也

「はい、これ」と紫色のケースを渡される。
「なに、これ」と言いながらもサイズ的に指輪だってことは分かっていた。
「じいちゃんに買って貰ったダイヤっちゃ。もうわたしは使わないから、持っていきな。よしみさんには内緒、内緒」
歌うような口調で祖母は続けた。

「婚約指輪なんじゃないの?」
「違うっちゃ、そんないいものでないっちゃ。ねだって買ってもらっただけっちゃ」

有無を言わさない勢いで、その指輪はわたしのものになった。
最後に祖母はこう言った。
「売ってしまっても良いんだ、それはいつか役に立つものだから」



***

売るつもりなんてなかったけど、家族旅行資金になんて気持ちで質屋に鑑定に出したことがある。
せっぱつまってはなかったけど、余剰金としてあったら楽しめるよって感覚。

暑い夏の日だった。
麦茶を出して奥の部屋に入ったおっさんが戻ってきて言った。

「本物だけどね、このカラットじゃ良い値段はつけられないね。8万。んー、末広がりで8万8千円かな」
からっとした声でそう告げる。

8万8千円。
プラチナ代込みで8万8千円。

「じゃあいいです」
なかば奪い取るようにお店を後にするわたしに、「他に行っても同じだと思うよ」という店主の声が追いかけてくる。

ふざけないでよ。
おばあちゃんがおじいちゃんに買ってもらった指輪。
いざと言う時には、お金になるよって託してくれた指輪。
その価格にまったく納得がいかず、ずんずんと駅までの道を歩く。

カンカンカン

踏切で止まる。

「あんた、めんこいんだから笑ってな」
ふいに祖母の声が聞こえる。

背が高いところを「わたしの息子に似たっちゃ」と誰よりも喜んでくれる祖母。
ほら、1番街歩いてたらあんたはモデルっちゃ。
いつもそう言う。

それが恥ずかしくて、祖母と歩くのが嫌だった時があるくらいに。
すんごく美味しいお店があるから。そんな誘い文句で連れられて行った場所がシェーキーズだったことがある。

「好きなだけ食うっちゃ」コーラーを飲みながら笑うハイカラな祖母だった。

お得用トイレットペーパーをしこたま買い込み、叔母に溜息をつかれるのは常であり、そのおこぼれとして宅急便で醤油やら、箱ティッシュやらインスタントコーヒーやらを届けてくれる。

「男の子ふたり育てるのは尊いことだ、生きてりゃいいんだ、怪我なんてたいしたことない、笑ってろ。笑えてればそれでいいんだから」

いつも電話の最後にはそう言うの。

肉が好きで、レア肉を好んで食べる。
「人間、肉食ってるうちは死にやしねえ」

そうだね、肉を食べたいと思うときに肉を食べると生きてるって思うよ。
肉にはハッピーホルモンがあるらしいよ。

身体も心も元気でいることは、結構難しいことなのかもしれない。
身体と心がバラバラになってきている祖母の姿をみてそう思う。

それでも、指輪につける価値を決めるのはわたし自身なように、祖母の命の尊厳は祖母のものであるように。

「あなたみたいになりたい」

そんな言葉の薄っぺらさに魂を受け渡すことなく、ただ粛々と今日を生きる。
ただそれだけのこと。

「光のページェント、見にさおいで」

仙台の冬の名物。それを見に行けなかったこと、ごめんね。

今年もやるのかな。
旧暦に実施する七夕。ぴよんぴよんと角のように揺れる飾りがついて揺れるカチューシャつけて見上げる七夕飾り。

初老のおじさんといえる年齢の叔父と父がオイオイと泣く姿を見て、なにも言えなくなる。

8万8千円の指輪は、大きすぎてわたしの薬指をくるくるとまわる。

さようなら。愛しています。これからも忘れません。
指輪は鈍く、光り続ける。



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