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ごめんやけど、からはじまる。

短い夏休みが始まった。

昼寝し過ぎで夜更かしするわたしに夫が切り出したのだった。

「ごめんやけど、次男はちゃんづけされて呼ばれるのが嫌なんだって」
「え?私、そう呼んでる?」秒でそう返答しながら思い返していると
「あっ」無意識であっても、そう呼んでいることに思い当たる。

「…そういうことです」



***


2歳差の兄弟。
2番目に生まれてくる子どもがどうやら男の子らしいと分かった時から、「お兄ちゃん」とは呼ばないで育てるって息巻いていた。
出来たがどうかは、隣で最高レストランのゲスト中川家をみてエクボ浮かべて笑っている夫に聞かないと真実は不明だけど、心掛けていたことは事実だ。


それに比べてどうだろう。
次男はいつまでたっても可愛い2番目ポジションとして捉えていたことに気付いて、びっくりする。いや、びっくりしている場合ではないのだ。自分を俺なんて呼ぶ年頃になっているのだから。

次男にある「小さい子として扱われる」ことへの不満があるのだろうと思って反省する。

翌朝、「ねえ、ごめんね。次男くんのこと、ちゃん付けで呼んじゃって」
そう伝えるとキョトン顔でハチミツトーストを頬張っている。そうだ、次男はいつでも顔いっぱいにして食べるのだ。変わらないなと懐かしく眺めていると、ちゃん付けが嫌な理由を聞いてみよう、推測や思い込みじゃなくて、この子の言葉で。そう思ったのだ。


「ねえ、ちゃん付けが嫌なのはなんで?」
「だってオレ、男じゃん、女じゃないでしょ?」
「あ、なるほどね。ちゃん付けは君にとって女の子扱いに感じるってことなのかな?」
「そーそー。オーケー?よろしくね」調子良く返す弟の言葉にうなづく兄の顔。


***


母である私は、きっといろいろやらかしている。
それは思い込みやら配慮が足りなかったり、家族だからという言葉でひっくるめた「この子はこうだ」という決めつけ。

愛があるから。
その言葉だけでなんでも許されるものではないだろう。
「ごめんやけど」そう切り出し伝えてくれる夫の眼差しの公平さにいつも救われているのだ。

「君のことは大好きなんだよ、だから言えないこともあると思うよ」って。


***

ダイニングテーブルでご飯を食べるし、ここでPC作業もする。ソファーでなんともいえない姿(ねえ、その体勢疲れないのって思う体勢)でFortnite楽しむ小学生男児を目の端に感じながら過ごす。

「はーい、お昼です」
その言葉を合図にコップとお箸、麦茶を用意するのは兄弟の役目。

これは嫌だって伝えていいし、一緒にさ、こうやってテーブルに集える時間を守りたいって思っているのだよ。それを大切にしたいし、大事に思っているのだよ。
そう思いながらカレーつけ麺をそれぞれの席の前に用意するんだ。

そして、イライラしたりムッとしたりですぐに心の丸いスペースに閉じこもる私を、「ごめんやけど」ってノックし続ける、伝えてくれる夫の優しさって要素にいつも助けられている。


「自分にはない相手にある要素」

きっとこれが人と人が惹かれる理由なのかもしれない。

麺を大盛りにしながら差し出すと、「ちょっと多すぎやないかい?」と笑う夫をやっぱ好きだって抱きしめたくなるけど、子どもの前だから遠慮するくらいには大人ではありたいって願うのだ。





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