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史上最高の「ありがとう」をもらった日

自転車に乗れるようになる日は、どうしてあんなにも唐突にやってくるのだろう。

自分が乗れるようになった日のことは覚えていない。父と一緒に練習をしている場面はぼんやり脳裏に浮かぶが、それが何歳ごろの事で、乗れるようになるまでどれくらい練習をしたのか全く思い出せない。

恐怖の金色ペーパードライバーの私にとって、自転車に乗るということは歩くことと同じくらい日常だ。乗れなければ相当のレベルで支障をきたす必須手段だ。

体も小さく運痴で非力で泣き虫だった私はきっと、乗れるようになるにはそれなりに難儀したはず。なのに、都合よく自分の苦労も親の苦労もすっかり記憶の外に放り出し、今となっては生まれたときから自分一人で乗れてたぜぐらいの気分でいた。もちろんそんなはずはないのだけれど。


息子、保育園最終年の夏。
その2年も前に、準備してあった子ども用自転車の補助輪を外し、ついに補助輪無しで乗る練習を始める時が来た。保育園の仲良しのお友達も練習すると言っているから自分もすこし頑張る、と、ようやくやる気を見せてくれたのだ。

彼は私ほどチビでも運痴でもないが、石橋を叩いても渡らない慎重派且つ豆腐メンタルの持ち主ゆえ、それまで補助輪がついていても自転車に乗ることにはかなり消極的だったので、これは大進歩だった。


初日はまたがって足で地面を蹴って、いわゆるランニングバイクの要領で公園のゆるい坂道を下るだけの練習。そしてスタンドを立てて止めた自転車にまたがった状態で、足元を見ず、地面とペダルに足をさっと移す練習。などなど。

そんな練習をしているうちに、2日目、拍子抜けするほどあっさり乗れるようになってしまった。乗るのを渋って2年も放置していたおかげで、幸か不幸か自転車が体に丁度いいサイズになっていたのもあるだろう。

曲がることはまだ少しおぼつかなかったが、補助無し自転車という新アイテムを使えるようになった彼は、公園の直線コースをひたすらいったりきたりする。

そして、おひさまを背負って真っ直ぐこちらに向かってペダルを漕ぎながら、こう叫んだ。


「おとーさーん!おかーさーーん!!じてんしゃ、かって、くれて、ありがとーーーー!!」


全身から溢れんばかりの喜びとともに、私達に向けて放った彼の「ありがとう」の破壊力は抜群で、私の心は、かめはめ波を食らったみたいにふっとんだ。

それは、私がうけとった、史上最高で最強の「ありがとう」だったと思う。

本当はもうすぐにでも彼をぎゅーーっと抱きしめて、ありがとうと同じだけのお返しをしたかったけれど、嬉し涙でせっかくの勇姿が見えなくならないように、平静を装い「気をつけて〜」なんて当たり前のことをつぶやきながら、自転車に乗る姿をじっと見ていた。


私はこんなに、まじりっけなしの「ありがとう」を誰かに伝えたことがあっただろうか。

「ありがとう」の語源は「有難し」という仏教語であるという。

出典は『法句経(ほっくきょう)』の、「ひとの生をうくるはかたく、死すべきものの、生命あるもありがたし」である、と言われている。人と生まれた生命の驚きを教える教説である。だから「有り難し」とは、その仏説を聞き、人の生命の尊貴(そんき)さへ目覚めた、大いなる感動を表す言葉でもある。それがいつしか感謝の意に、転用されるようになったのである。

東本願寺「真宗の教え」 https://www.higashihonganji.or.jp/sermon/word/word10.html


きっと息子は自転車に乗るという、その時初めて自分に生まれた大きな力で、いままで見えなかった世界が開けたのだと思う。そして、私達に、そんな自分に沸き起こった驚きと感動を「ありがとう」という言葉で教えてくれたのだ。


「ありがとう」


自転車買ってくれたのは、おじいちゃんなんだけどね。



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