「死ねれねぇなぁ」とつぶやいた
自分には祖父母はいるけど、曾祖父母はもういないものだと思い込んでいたある日、母が
「・・・あ、あなたのひいおじいちゃん、っていうのは、つまり私のかあちゃんの父さんか、いるわ。まだ生きてる。」
と言い出した。宮古島を訪れる予定になっていた小3の夏休みに直前にだ。
なんて唐突に、そんな重要事項を言い出すのだろうと、心の底からびっくりした。そして、宮古島に行くんだから会わせて頂戴と頼んだら、そりゃあそうだ会わせなきゃ。ということで、会いに行けることになった。
もういないと思っていた曽祖父は、母の母であるおばあの実家だという家に、うちのおばあの妹(もしかしたら義妹かもしれない)にあたるというおばあと2人で住んでいた。このおばあの名前は”みーがまおばあ”と呼ばれていたと記憶している。みーがまは土地の名なのか屋号のようなものなのか、ちょっとわからない。
おじいおばあの呼び方にもいろいろあるようで、うちのおばあは長女だから、ここでは”うぱーんな”と呼ばれていたと思う。ただ、おばあの嫁ぎ先である母の実家は、皆から”うぷうや(一番上の伯父さん・多くが長男・家長?)”と呼ばれる私のおじいがいて、おじいのお姉さんが近くに住んでいたから、そちらのほうが尊敬を込めて皆に”うぱーんな(本家の長女?)”と呼ばれていたから普段うちのおばあが”うぱーんな”と呼ばれることは無かったはずだ。
おばあの実家は、おじいの家にくらべて血縁が薄かったのか、時期家長にあたる人物が早世したのかそれらしい話があったような気がするが、質素で小さな家だった。
母は、宮古島の実家で自分の父の両親と一緒に3世代で暮らす、いわゆる本家筋の家で育ったし、母が子供だった戦後間もない頃はまだ、今からは想像もつかないくらい、長子相続の意識が強いから、自分の母方の祖父母というものの存在感が薄かったのかもしれない。だから祖父母といえば同じ家で過ごした「父の両親」しか思い浮かばなかったのだろう。
みーがまおばあは、機織りをする女性だったので、小さな家に似つかわしくない大きな織機があった。宮古の織物と言えば、希少価値の高い宮古上布だが、みーがまおばあが織っていたのが上布なのかどうかはわからない。ただ、当時、私のおばあもまわりの親戚も、ここのおばあの織るものは「上等よー」と言ってたので良い仕事をする宮古織物の職人だったに違いない。そういう織りの技術を継承する存在がいなかったことは本当に悔やまれる。
とにもかくにも、はじめて存在を伝えられ、会うことができた曽祖父は、小さな家の畳敷の居間で、ゴザをひいて、ほぼ寝たきりだった。既に96歳だったと記憶している。
「はじめまして」の挨拶をした曾孫である10歳と9歳の娘の姿を目にして、白いステテコ姿のこのひいおじいは、もうほとんど会話をすることはできなかった。だが私達を自分の孫の子供だということはしっかり認識していて初めて会えたことを喜んでくれたと思う。
「ああ、まだ死ねれねぇなぁ、死ねれねぇ」とずっとつぶやいていた。
ひいおじいに会えたのはこのときが最初で最期だった。もうこの時一緒に居た、おばあもみーがまおばあも、私の母もこの世にいない。
だから私達に会って「まだ死ねれねぇなぁ」と言ってくれたひいおじいの言葉を記しておこうと思う。
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