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建築の大学院を卒業してウィーンへ来た私が最初にしたプロジェクトの話(1)

ウィ-ンへきて建築家として仕事を始めて30年。私がなぜウイーンへやって来たかとこの歴史の街で最初に設計したプロジェクトの話です。”日本人新米建築家が歴史の街ウイ-ンでどんな洗礼を受けたのか”

地球を3/4廻ってウィーンへ

よく、”オーストリア人の旦那さんと出会ってウイーンへ来たんですか?”と聞かれるのだけれど、そんなロマンチック話ではなくて、ウィーンの建築事務所に就職することになったので、私はウィーンへやって来た

日本の大学の理工学部建築学科を卒業して、その後太平洋を渡り、アメリカの大学院で建築を学び(この話はまたしますね)、突然の機会に恵まれ、今度は大西洋を渡って、ウィーンの建築事務所に勤めることになった。だから、地球を3/4周くらいしてここウィーンに来た

大学院を卒業する時、アメリカ・ボルチモアのウォ-タ-フロント開発で有名な企業にすでに就職が決まっていた。そのころ、日本ではまだウオ-タ-フロントの開発自体があまりなかったから、とても興味があった。

最後の卒業設計プロジェクトを仕上げるため、大学のスタジオにいた時、クラスメ-トが「Miyako、日本から電話よ。」と私を呼びに来た。そのころはまだ携帯電話なんてもちろんなくて、廊下に一台だけあった公衆電話にかかってきた日本からの電話だった。(30数年前です!)電話に出たら、とてもお世話になっていた建築家・象設計集団の丸山欣也先生だった。

「先生、お久しぶりです。」
「やあ、元気で卒計やってる?実はちょっと聞きたいことがあって電話したんだけど。」
「はい、何でしょう。」

「ウィーンに興味ある?」
「はっ?!」
「ありますけど、どうしてですか?」

「実は知り合いのウィーンの建築家が日本人の建築家を探しているんだけど、そこで働く興味ある?」

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気が付いたら私は「はい、ウィーンに行きます!」と答えていた。

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ウィ-ンにはまだ一度も行ったことがなかった。

そのあとで、せっかく、アメリカで就職がきまっていたのになぜ?!二つ返事でウィーンに行くと言っちゃったんだろう、と考えた。
これはほとんど本能的な決断だっとしか言いようがないのだけど、もしかしたら、きっと潜在意識の中でこう思っていたのかもしれない。

アメリカで勉強しているうちに、アメリカ人には自分たちのル-ツであるヨーロッパの文化に対して言われようのない憧れと郷愁とライバル的感情があることに気づいた。だから、ヨーロッパをぜひ見てみたいと思った。

就職よりも純粋な好奇心と興味が勝ってしまった、というのが正しいのかもしれない。もっともっと世界を見てみたいという、好奇心

そうして、私は新卒としてウィーンの建築事務所に就職したのだった。(就職が決まっていたアメリカの企業には正直に事情を話したら、良かったですね。ヨーロッパでの検討を祈ります。と快く承諾してくれた。)

ウィ-ンに来て最初の仕事は...

ウィ-ンに来て最初の仕事は日本食レストランの設計だった。ああ、レストランね。って思われるかもしれないが、ここから私には数々の壁が立ちはだかることになる。

それは、岡山のデパ-トで有名な天満屋さんが初めて海外に出す純和風の日本食レストランだった。まだ、ウィーンにはない本格的な会席料理、寿司、鉄板焼きを提供する、そして数寄屋風の日本家屋のような空間をしつらえた…

考えれば、だからオーストリアの建築事務所で日本人の建築家を探していたのだが。

日本の大学の建築学科を卒業された方はお分かりだと思うが、大学では日本の伝統的は木造建築の設計はほぼ教わらない。(少なくても私の時代は。)しかも、その後、ミース・ファン・デル・ローエやエーロ・サーリネン、フランク・ロイド・ライト、リチャ—ド・マイヤ-、ザッハ・ハディドなど「モダン建築のスタ-たち」に憧れてアメリカで勉強をしてきた私は、

「数寄屋風の伝統的な日本家屋と言われても…」と困ってしまった。
しかも、それを教わるべき建築家の先輩も、大工さんも、ウィーンにはいない。まだそのころは、インタ-ネットもない

運がいいことに、事務所の所長(オーストリア人の建築家)は大の日本びいきで、彼は日本の伝統的家屋や和風建築(レストランや旅館も含め)に関しての本を30冊以上持っていた。

ウィ-ンでひとり。誰も聞く人がいない、そして、Googleもない時代の私は、かくして、その本で朝晩、伝統的な日本建築の勉強をしながら設計をすることになったのである。

歴史的建造物のなかに日本建築のファサ—ド

ここで、日本びいきの所長からコンセプトの提案があった。

「建物の中に入ると、路地のようになっていて左の店の暖簾をくぐると寿司・和食レストラン、右の店の暖簾をくぐると鉄板焼きレストラン。ずっと、奥へ入っていくと日本家屋のような玄関を入って、畳の部屋がある。そこで、会席料理を提供したらいいと思う。

いうのは簡単ですが、所長…

しかし、ウィーンに来てしまった私は、アメリカにも、日本にももう戻れない。とにかく勉強して、分析して、創造して、設計して…50枚におよぶ1:25の立面図、平面図を鉛筆で(そうです。まだCADはなかったのです。)描き上げた。そして、そして所長と共に施主にプレゼンをした。(と、1文で書きましたが、3か月の月日がかかりました。)

図面

提案が受け入れられ、次の”高-い壁”。それは建築申請。それも、ただの建築申請ではない。

レストランが入る建物はウィーン中心部の歴史地区、国立オペラ座から徒歩3分の好立地!なのだが、

それはすなわち、私たち建築家には「歴史保存局の厳しい審査」を意味する。

ご存知のように、ヨ-ロッパの都市には歴史的な建物がたくさんあるが、これを保存しながら使用するために、実にたくさんの努力がはらわれている。建築基準法や都市計画法、消防法などの基本的にクリア-しなければいけない法律に加え、道路に面するファサ—ドの景観審査は例外なく行われる。

この審査に関わる役所の人は、大学で建築を教えられるほどの人材で、新築や変更されたファサ—ドが通りの景観に合っているか、付近の建物と調和がとれているかを建築家と話し合い、助言をし、審査し、承認する。そこには、何センチ以下ならとか、どのマテリアルならとかいうフォーマットやマニュアルは存在しない。どれだけ、ウィーンの景観を理解しているかが求められる。

それに加え、私のプロジェクトが入る建物は、歴史保存建造物。すなわち、歴史的に貴重なので壊したり、変更したりしてはいけない建造物だった。

日本で、高度成長時代からバブル時代の”スクラップ・アンド・ビルド”真っ盛りの洗礼を受けた時代に建築の学生だった私のまえに、ヨーロッパの歴史が立ちふさがったのである。

レストランなんて、インテリアで、建物の変更はしないじゃない、と思われた方もいらっしゃると思う。

ところがどっこい、外から見えるものは、すべて審査の対象となる。

これは、ヨーロッパのどの歴史都市もそうだ。ベニスのサンマルコ広場のアーケ—ドのなかに小さいお店を設計した時などは、ファサ—ドのガラスを通して中が見えれば審査の対象といわれ、結局、カウンタ―のロゴマ-クの大きさや仕様まで審査された。(このお話はまた機会のある時に。)

そう、一階の柱の間から見える”純和風のファサ—ド”もバッチリ審査の対象。しかも、この建物はユーゲント・シュティ—ルの建物だった。

ユーゲント・シュティ—ルとは1900年前後にウィーンを中心に起こった芸術・建築の新たな潮流で、建築ではオット-・ワーグナ-、絵画ではグスタフ・クリムトなどが有名。(詳しくは「ウイーンの今#5」をご覧ください。)ウィーンをウィーンたらしめる超有名で重要な様式。

ちなみにこれは有名なユーゲント・シュティ—ルの建物(オット—・ワ-グナ-設計のマジョリカハウス他)

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新卒の新米建築家の私は、ヨーロッパで建築家をするということの最初の洗礼を受けることになった。(次につづく)

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長くなってしまうので、今回はここで筆をおこうと思います。(もちろん筆で書いているわけではありませんが…笑)

今回もここまでお読みいただきありがとうございました。また続きを近いうちに書きます!-連日気温30度を超えている暑いウィーンより

続きはコチラ➡ 建築の大学院を卒業してウィーンへ来た私が最初にしたプロジェクトの話(2)

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