土脉潤起
窓を伝って落ちていく雫を見送る。
幾筋もの跡を上書きしていくようにとめどなく流れ落ちるそれは、そのまま吸い込まれるように歩道脇の排水溝へと消えていく。
「お待たせしました、ホットのカフェラテです。」
カチャリ、と陶器が触れ合う音がする。
運んできてくれた店員さんに礼を言い、ソーサーに乗っている角砂糖を一つ落とす。ティースプーンでゆっくりかき混ぜるとふわり、とコーヒーの香りが立ち昇った。ひと口運んだそれはじんわりと中から体を温めてくれる。
パタパタ、と先程より幾分か激しくなった雨音に再度視線を向ける。
手で避けながら足早に去る人、一つの傘に身を寄せながらきゃいきゃいと楽しげに歩く人々、鮮やかなレインコートを翻しあえて水たまりに飛び込んでいく子供達。
こんな雨の中、彼らはどこに行きどこに帰るのだろうか…
とりとめのない事を考えながら行き交う人々を眺めていると、その奥に藍色の布地が見えた。人波を縫うようにゆっくりと、しかし着実にこちらに向かってくるそれを意識的に視界から追いやると、代わりに右手薬指の鈍い光が飛び込んできた。
試しにぐっと押し上げてみるが、すっかり馴染んでしまったそれは簡単には抜けそうにない。
諦めてカップを持ち上げたところで、カランコロン、とドアベルが鳴った。
いらっしゃいませ、という声に続いて短くやり取りをする声が聞こえる。
しばらくして色の濃くなったコートの袖から伸びる少し節くれだった手によって目の前の椅子が引かれ、その背もたれに少し雑に畳まれた藍色の傘がかけられた。
「ごめん。お待たせ。」
脱いだ上着を適当に丸め膝の上に置いて座ると同時に、入口で注文したのであろうホットコーヒーが運ばれてきた。店員さんに笑顔で礼を言って、ソーサーの角砂糖はそのままにぐっとひと口流し込んでいる彼を横目に小さく息を吐く。
「忙しいのに来てもらってごめんね。」
「いや。呼び出したの俺だし。」
風によって乱れた髪をさっと直す彼の右手を咄嗟に確認してしまう自分が嫌だ。
その指に見慣れたものは見当たらないのに、彼が来ているセーターは随分昔に私が贈ったもので、一体彼が今日どんなつもりで着てきたのかさっぱり分からない。
「仕事だったの?」
「あぁ。どうしてもリモートじゃ片付けられない案件があって…久しぶりに都心に来たけどやっぱこっちは人多いな。」
「私も久しぶりに外に出たけど、すごいよね…。」
最初は違和感しかなかったマスク姿の人波、店頭に設置されたアルコールボトル。
この1年で街はその姿を変えたが、慣れという悪習によって最近では元の雰囲気を取り戻しつつある。それがいいことなのかどうか、私にはまだ判断できない。きっと随分時間が経ったあとに初めて分かることなのだろう。
「でも元気そうでよかった。」
伸びた髪。新調したらしい眼鏡。
知らない彼の中に知ってる面影を探す。
これが、未練というものなのだろうか?
付き合って5年。家も職場も違う、元来頻繁に会うタイプでもなかった私達は世情に流されるままに時を過ごした。
徐々に減っていく通話やメッセージ、友人やSNSで知る近況。
そんな中、久々に彼から来たメッセージは『話したいことがある』
せめてもの抵抗をと綺麗に髪をセットし、顔をしっかり造りあげ、おろしたてのニットワンピースに身を包んだ。
まぁ、それも生憎の天気のせいで万全の状態ではなくなってしまったけれど。
「それでさ…話、なんだけど…」
咳払いをする彼につられて姿勢を正す。
「俺、仕事辞めることにした。」
「…え?」
「先輩が会社立ち上げて、前々からそこに誘われてたんだけど…今の会社でやってるプロジェクトが終わるまではって思ってて。」
「そう、なんだ…」
「うん。それがやっと一段落したから、会社や先輩とそれぞれ話して3月で辞めることなったんだ。」
忙しそうにしているな、とは思っていたけれどそんな事になっていたなんて知らなかった。
じゃあ何?
環境が変わるから心機一転?
それとも仕事先でいい人ができた?
思い当たる節がない。ないのが情けない。
こんなんだから、指輪だって外されるし、こうして呼び出されて別れを告げられてしまうんだ。
ならばせめて最後は惨めにすがるなんてことせずに…
「一緒に暮らさない?」
「…………へ……?」
「だめ、かな?」
「…いや、だめっていうか……え?」
「そりゃ、仕事が変わって暫くはバタバタしちゃうと思うけど…それでも今までよりは一緒にいれる時間は増えると思う。」
ポカン、と口を開ける私の向かいではこれまでに見たことないほど真剣な瞳でやや耳の縁を赤くした男がこちらを見据えている。
「俺は一緒にいたい。」
「…じゃあ……なんで指輪……」
「指輪?…あぁ」
視線を落として自分の右手を見た後、丸めた上着に腕を突っ込む。
呆然と見守ることしかできない私の前にごそごそと引き出されたそれがコトリ、と小さな音を立てて置かれる。ゆっくりと開かれたそこにはキラキラと輝くサイズ違いのリングが2つ並んでいた。
「これからはこっち着けたいな、と思って」
輝きから目を離せないまま、震える手でそっと大きい方を引き抜き、添えられていた指を手に取る。
その時初めてその指先が小さく震えていることに気付いた。
ゆっくりと滑らせたそれが節を越えてあるべき場所に収まったとき、頭上で鼻をすする音がした。
よく見知った、私より泣き虫な彼が泣きやんだら、今度は私の指を差し出してみよう。
そんなことを思いながら、馴染んだ指輪にそっと触れた。
雨水
土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)
降り積もる雪が次第にしっとりとした春の雨にかわり、大地が潤い始め、春の気配が忍び寄る頃。
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