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蚯蚓出


「…やっぱり三枝さんの資料は分かりやすくていいね…。」


まだほんのりと温かい、刷りたてのコピー用紙を手にした課長が隅々まで目を走らせている。ペラペラと紙を捲る音を聞きながら待つこと数分。顔を上げた課長の表情を見てほっと胸を撫でおろす。

「うん。問題なさそうだ。ありがとう。」

「いえ!むしろこんな時間まで付き合っていただいて、すみません…」


外はまだ明るさを残しているが、時計を見ると18時10分を指しており、退社時間を過ぎてしまっている。フロアに残る人影もまばらだ。
手にしていた用紙を机の上でトントン、と軽く整えてから鞄にしまう課長に頭を下げれば穏やかな声が降ってきた。

「無茶なお願いしたのはこっちだよ。むしろ悪いね。休暇明け早々に残業させてしまって…。」

「とんでもないです。お休み頂いた分、しっかり働かせていただきます。」

「ははっ。頼もしいね。」


笑いながら帰り支度をする上司に倣い、デスクの上を片付ける。
1週間の有給休暇を終えて職場に復帰した日に目にした資料の山は、だいぶ低くなった。急ぎのものはないし、残りは来週やることにしよう、とPCの電源を落とす。

「もう出られる?」

「あ、はい!」


上着と鞄を持ち、残っている隣の部署の人たちに声をかけつつ部屋から出れば、タイミングよく到着したエレベーターの扉を開けて待っていてくれる課長の姿。
慌てて乗り込みボタンを押すと、静かな駆動音と共にゆっくりと降下しはじめた。

隣に立ち、外の景色を眺める課長の横顔をそっと盗み見る。
夕日に照らされたその顔は目元にうっすらと刻まれた皺が50代半ばという年齢を感じさせるが、すっと通った鼻筋とキュッとしまった顎が、若い女子社員も頬を染めるほどの色気を醸し出し、緩やかに弧を描く口元が柔和な印象を与える、端的に言えば、整った顔だった。

ぼんやりと見つめていると、その端正な顔が突然こちらに向いたので、驚いて前へ向き直った。

「そういえば、お土産美味しかったよ。ご馳走様。」

「え?…あぁ!お口にあってよかったです。」

「北海道は今頃過ごしやすかっただろう。」

「そうですね…」

ボロがでないよう、当たり障りない返事をする。
物産展で適当に買ったお菓子の味は分からないし、ましてや行ったことのない北海道の話を詳細に求められては困る。
実際は家に籠ってゲーム三昧だった、なんてことを知ったら、怒られることはないだろうが、然しもの課長も呆れるだろう。

ポーン、と軽やかな音が鳴り、独特の浮遊感が消える。エレベーターを先に降りた課長が出口に向かって歩きながら口を開いた。


「実は、北海道出身なんだよ、僕。」

「そ、そうなんですか!?」

「どの辺旅行したの?」

「えっと…。」

「篠田課長!」

返事に困っていると突如玄関ホールに声が響き渡り、その声に手を挙げて答えた課長が外へ出る。
話が中断したことに安堵しながら足を進め、外へ出て、すぐさま引き返したくなった。

「お、三枝も一緒だったのか。」

最近海外勤務から戻ってきた営業部の牧田さんと、その後ろによく見知った先輩が一人立っていた。

オフィスに設置されたホワイトボードには【直帰】と書かれていたので油断した…。

お疲れ様です、と軽く頭を下げたあとは、目が合わないように斜め前に立つ課長の横顔を見つめることに専念する。
課長と牧田さんが話を続ける中、私は向けられる視線を無視することに必死で、話の内容はさほど聞かず、形だけの相槌を打っていた。
にもかかわらず、その単語だけは嫌になるほどはっきりと聞き取ってしまった。

「へぇ、長峰くん、2人目産まれたの。」

おめでとう、という課長の声が耳に届き、慌てて祝いの言葉を口にする。

自分の口から出たその言葉には、驚くほど感情がこもっていなかった。

変に思われないように咄嗟に笑顔を作ったが、果たしてそれもうまくできているか自信がない。

「ありがとうございます。」

「男の子?女の子?」

「女の子です。」

「そうか…きっと可愛いだろうね。上の子はいくつになったんだっけ?」

「3歳です。今は、妻と一緒に実家のほうに帰ってて…。」

「そう!なんで、今のうちにお祝いがてら飲みに行くか、って話してたんですけど、もしよかったら課長もどうですか?もちろん、三枝も一緒に。」

誰にでも分け隔てなく接するところが牧田さんの良いところではあるが、今だけはそれを恨めしく思う。

こちらは知らない、いや、知ろうとしなかった事実を受け取ることでいっぱいいっぱいだ。
そもそも挨拶すらまともに返せないのに、飲みの席なんてとんでもない。
こちらを振り返った課長に曖昧な笑みを返し、なんとかして断らねば、と辞退の理由を考えていた時。

「僕ら、今日このあとちょっと打ち合わせがあるんだよ。」

そう牧田さんに告げる課長。そんな約束をした覚えはないが、もしかしたら課長にも予定があって断りたいのかもしれない。
だとしたら、この流れは渡りに船だ。

「あ…そうなんです…。すみません、誘っていただいたのに。」

「いやいや!こっちも急に誘ったし…じゃあ、今回は男2人で飲んできます!」

「あぁ。長峰くん、悪いね。」

「あ、いえ!とんでもないです。」

「また今度飲みに行こう。」

「はい、是非。」

手を振り笑顔で去っていく牧田さんに再度お疲れ様です、と声をかけ頭を下げる。

視界に残る一対の革靴。

その側に干からびかけた蚯蚓が一匹横たわっていた。

もうそんな季節か、と頭の片隅で考える。
小さい頃はいつも不思議だった。
地中にいれば、見たくないものも見ないですむし、こんなに苦しい思いをして儚く無残に消えゆくこともないのに、なぜ地上に出てきてしまうのだろうか、と。

でも、今なら分かりそうな気がした。

蚯蚓は
見たことない世界を見てみたくなったのかもしれない。
眩しい太陽に恋してしまったのかもしれない。
新しい自分に生まれ変わりたかったのかもしれない。

例え苦しみ、傷つき、消えてしまうのだとしても。地上に出てみたくなったのではないだろうか。


顔を上げ、正面に立ったままこちらを見つめるその目を見返す。
久しぶりに向き合ったのは、少しだけ眉根を寄せ、何かを言いたそうな顔。

胸をチクチクと刺激するのは、未練でも後悔でも、ましてや恋心なんてものでもない。

捨てきれない、情という名の厄介な棘には気づかないふりで。

「また今度、お祝いさせてくださいね。」

一息で言い切った。
黙ったままだった長峰さんは、一瞬目を伏せ、数秒してから口を開いた。


「ありがとう。」

その笑顔はぎこちなくて嘘くさかったけど、きっとお互い様だ。
それじゃあ、と会釈をし、少し先を行く牧田さんのもとへと駆けていった。



これでいい。



まだ少しだけ疼く胸も、沈みかけた夕陽の眩しさも、しばらくすれば慣れるだろう。




「さて。」

腕時計で時間を確認しながら、課長が振り返った。

「三枝さん、お腹空いてない?良かったら何か食べに行かない?」

「え?…あれ、課長何か予定があるんじゃ…。」

「ん?特にないけど…頑張った部下にご馳走しようかな、と思って。」




優しい笑みと穏やかな声音が身に染みる。

不意打ちの優しさに鼻の奥がツンとするのをごまかすように、大きく息を吸い込み、笑い声と一緒に吐き出した。


「ガッツリ焼肉でもいいですか?」



今度はちゃんと、笑えたと思う。

満面の笑みで頷いた課長の隣に並び、雑踏の中へと足を踏み出した。





立夏

蚯蚓出(みみずいずる)
冬眠していたみみずが、地上に出てくる頃。


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