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遠い記憶 十九話

私も、中学に上がった。
最初の、土曜日。
母には、給食が無いから、弁当がいると言ってあった。

その、弁当の日、みんな各々に、弁当を開ける。
私も、何の疑いもせず、自分の席で、弁当の蓋を開ける。
その、弁当の蓋を、開けて思わず、固まってしまった。

四角い弁当箱の中には、白いご飯と、
卵を、いかにも面倒くさいと、言わんばかりに、クシャクシャに焼き
混ぜられた、卵焼きだけ。
それも、ご飯の重みで傾き、卵は約一センチぐらいに、押し潰されていた。

後から、蓋を開けなければ良かったのにと、思ったが、
もう、遅い。
直ぐ、側にいた、友達に見られてしまった。

廣ちゃん、そんなんで足りるの?
足りる訳ないやろう?と、言いたかった。
せめて、梅干しぐらい、入れてくれれば良かったのにと、思った。

いくら、貧しくても、これは、無い。
毎日、父には、弁当を作ってる。
お金は無くても、野菜や、魚は、地元でふんだんにある。
いかにも、面倒くさいと言わんばかりだった。

腹の底で、そうかい、そんなに私が嫌いかい。
そう、思った。
私は、家に帰って、母に何か文句を言う訳では、無かった。
言っても、無駄だと思った。
母には、お母さん今度から、弁当は良いから、自分で作るから
と、告げた。

学校では、相変わらず、美術の期間は、唯一、自分を表現するには
とっても、楽しい時間だった。

一年生の時、私の造ったブロンズ像が、県の作品展に出た。
その後、先生が、絵を描いて来る様にと、言われて、
わざわざ、海まで出て、海の絵を描いたが、
自分でも、何故あんな絵を描いたか、判らない。

青い海を、描きたっかったはずだが、出来上がった絵は、
とても、海とは、思えない色使い。
ついでに、白い雲は、グレー色だった。

結局、私の作品は、作品展に並ぶ事は、その後一度も
無かった。
ブロンズ像だけが、校長室の前に飾られ、何時しか、忘れさられていた。
私は、大好きな絵さえも、描けなくなっていた。

その後、私は、毎度母の愚痴の相手をする様になっていた。
私も、母に何で、あんなお父さんと、一緒になったの?と
大人の、話を聞く様に、なった。
母は、私と話している時だけは、少し心を開いている様に見られた。

母は、私に言った。
離婚は、何度も考えたと、離婚用紙も持っていると、
ただ、父に見せたら、何するか判らんから、友達の家に置いて貰ってる。と

毎日、何時まで続くのだろう。
こんな、生活が、疲れ疲れて、どうにかなりそうだが、
どうにも、出来ない。現実。

毎日が、まるで、永い、永いトンネルの中に、居る様で、
暗くて、先の見えない、辛さと、不安で押しつぶされそうに感じる
毎日だった。

ある日の学校での事。
職員室に、印刷物を取りに、行った時である。

渡り廊下を渡り、職員室の入り口が二つあるが、一番手前の入り口を
開け、中へ
部屋の突き当りまで行ったら、右へ進むと、印刷物が置いてある所だ
しかし、突き当りまで行く手前から、先生の大きな声。
聞こうと思って無くても、聞こえてしまう。
その先生の前に、静かに頭を下げて立つ、男の子が一人。

どうするか?
ノート10冊にするか?
鉛筆どうするか?
1ダースにするか?
そうだな、体操服も買うか?と言いながら、何やら書類らしき物を、
書いていた。
その時、頭を下げていた男の子は、同級生の子だった。
私が、側に入って来た姿に、チラッと、こっちを見る。
とっさに、私は、何も気づいて無い振りして、右手に移動。
心の中で、
先生、もう少し小さな声で、話せよなぁと、思う。
その子の、お父さんは、詳しくは知らないが、
早くに亡くなっていた。
きっと、母子家庭のため、何かの援助を、受ける為だった
と、思う。
私は、印刷物を、持ち反対の出口からその、職員室を後にした。

職員室を出て、私は、大きなため息をつく。
私の、お父さんも、死ねばいいのに。
ノートも買って貰える。
鉛筆も、何?一ダース?
うちより、良いやんか?
何だか、不平等に思えた。




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