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自死の縁で

○国頭郡男女の労働者
郡役所最近の調査に依れは同郡各間切に於ける男女の労働者中傭人となりて間切内に働くもの男は二千一百八十七名、女九百六十名、(男は一千二百二十一名多し)他郡より来り傭人となりしもの男は四百九名、女一百二十九名(女は三百八十名多し)なり又た郡外に被傭人となりて出稼のもの男三百○七名、女八十七名(男は二百二十名多し)にして即ち郡内に於て働くものは他郡より傭はれ来りしものより男が一百二名、女が四十二名多き勘定なり此外に娼妓となりて出稼のもの六十三名あり之を各間切に区別すれは左の如し
(略)
娼妓の最も多数なるは名護間切にして即ち他間切は一名乃至六名なるに同間切は既に四十名の大多数を占むるは注目すへき事なり以上の人員は年齢十歳以上一月に付十五日以上の雇人なり

「琉球新報」1903年3月23日



1903年(明治36年)の沖縄の新聞記事だ。

沖縄県の沖縄本島北部に国頭郡がある。やんばると呼ばれる地域だ。近世から近代、現代にいたるまで琉球・沖縄の歴史の主流からも開発のメインストリームからも離れた(疎外された)地域だ。

その国頭郡の調査結果として、特に郡内の名護間切(現在の名護市西岸の名護湾沿岸地域)から多くの女性が「娼妓」として出稼ぎに出ているということを伝えている。

明治政府によって琉球国が取りつぶされて日本に併合され、近代税制が施行されたあおりで、農民たちは土地を手にした代わりに納税の義務を課された。

集落によって米などで年貢を納めていた時代と違い、個人として土地を所有して収益を上げ、金銭を国に納めなければならなくなった。
そのとき、農村の家庭に何が起きたのか。

記事は、貧困の果てに人身売買が行われていたことを想起させる。

その先の話は上原栄子『辻の華』に詳しい。
上原は1915(大正4)年に生まれ、4歳で辻に売られた上原は1944年まで辻で生活。戦後は「八月十五夜の茶屋」のモデルにもなった「料亭松乃下」を経営した。

辻遊郭は女性たちが取り仕切る世界だった。男が女性の身体を管理、売買した日本の遊郭と比較する言説もある。糸満に売られ、海にたたき落とされて生死の境をさまよいながら泳ぎを覚え、漁師にされていった男たちと比較する言説もある。それらと比較する必要はまったくないが、比較したとしてもあまりに過酷な人生を強いられたのが、売られた女性たちだった。

なぜなら、近世から近代にかけての世替わりだけでなく、沖縄戦で女性たちがどんな目に遭ったのか。戦後の米国統治下(あるいは「復帰」後も)、どういう扱いを受けてきたのか。ということを、現在に生きる沖縄の人間として考えるべきだと思うからだ。

 琉球王朝時代から公娼として存在していた辻遊郭を背景に、多くの遊女たちが慰安婦に動員されたことを指摘した。
 沖縄では売春防止法が本土から16年遅れて施行されたことについても説明した。沖縄では同法施行による米軍らの女性への暴力を懸念し、売春を容認する考え方があったことを指摘した。
 「沖縄が戦場にされ犠牲となったが、私たちは慰安婦として動員された女性たちへのまなざしについては、むしろ加害者の側に立っているのではないか」と持論を展開した。

「琉球新報」2012年8月21日

100年後の新聞に、高里鈴代氏(「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表)の話が載っている。

二重のマイノリティーという考え方がある。わたしが自死の縁で、あるいは殺意をもって「その足をどけろ」と被害を訴えたとしても、わたしに足を踏まれて自死の縁にいる者もいるのだということを考える。


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