自死の縁で
1903年(明治36年)の沖縄の新聞記事だ。
沖縄県の沖縄本島北部に国頭郡がある。やんばると呼ばれる地域だ。近世から近代、現代にいたるまで琉球・沖縄の歴史の主流からも開発のメインストリームからも離れた(疎外された)地域だ。
その国頭郡の調査結果として、特に郡内の名護間切(現在の名護市西岸の名護湾沿岸地域)から多くの女性が「娼妓」として出稼ぎに出ているということを伝えている。
明治政府によって琉球国が取りつぶされて日本に併合され、近代税制が施行されたあおりで、農民たちは土地を手にした代わりに納税の義務を課された。
集落によって米などで年貢を納めていた時代と違い、個人として土地を所有して収益を上げ、金銭を国に納めなければならなくなった。
そのとき、農村の家庭に何が起きたのか。
記事は、貧困の果てに人身売買が行われていたことを想起させる。
その先の話は上原栄子『辻の華』に詳しい。
上原は1915(大正4)年に生まれ、4歳で辻に売られた上原は1944年まで辻で生活。戦後は「八月十五夜の茶屋」のモデルにもなった「料亭松乃下」を経営した。
辻遊郭は女性たちが取り仕切る世界だった。男が女性の身体を管理、売買した日本の遊郭と比較する言説もある。糸満に売られ、海にたたき落とされて生死の境をさまよいながら泳ぎを覚え、漁師にされていった男たちと比較する言説もある。それらと比較する必要はまったくないが、比較したとしてもあまりに過酷な人生を強いられたのが、売られた女性たちだった。
なぜなら、近世から近代にかけての世替わりだけでなく、沖縄戦で女性たちがどんな目に遭ったのか。戦後の米国統治下(あるいは「復帰」後も)、どういう扱いを受けてきたのか。ということを、現在に生きる沖縄の人間として考えるべきだと思うからだ。
100年後の新聞に、高里鈴代氏(「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表)の話が載っている。
二重のマイノリティーという考え方がある。わたしが自死の縁で、あるいは殺意をもって「その足をどけろ」と被害を訴えたとしても、わたしに足を踏まれて自死の縁にいる者もいるのだということを考える。
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