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先生というエモい存在

 先日、講座を終えてお昼ご飯を買いにいつものお店に寄ったけれど、この日は何にしようか迷ってしまい選べないでいた。そんな時は残り1つ、2つとなっている品を買うことにしている。ショーケースの中を見回すと、置き去りにされたような1本のかんぴょう巻があった。渋すぎる…。しかも、かんぴょう巻があることを初めて知った…。私は迷わずそのかんぴょう巻と、残り2つとなっていた五目いなり寿司、明日のお弁当用にカツとポテトサラダのサンドイッチを買って帰った。

 随分と久しぶりに食べたかんぴょう巻は優しく諭されるような美味しさで、こんな時に『日本人でよかったなぁ…』と初老の私は思ってしまう(笑)
 
 7月に入って講座が増々面白くなってきて、独学もイイけれど、やっぱり、先生に直に教わるのはイイものだと思った。それに、なんだか私は先生と呼ばれる人と縁があるような気がする。職場でも、私生活でも先生と呼ばれる方が周りに多い。それに、人生初の推しの坂本龍一は教授と呼ばれていたし、人生最後の推しになるはずの宮本浩次も先生と呼ばれている(笑)

 今どきはサラリーマン化した先生も確かに見かけるけれど、私にとって先生は、その分野の探求や伝える熱量がちょっとおかしいくらい情熱的なイメージが強い。そして、それを上手く表現している内田樹先生の記事を拾い読みしてコレコレッ!と納得してしまった。

先方は「聴く気がない」、こちらは「袖にすがっても言いたいことがある」。合意形成は難しい。とはいえこちらも教壇に立つこと半世紀という老狐である。絶対に寝かさないで最後まで話を聴かせる術は心得ている。

内田樹 BLOG

教える資格というのは有用な知識や技術を持っていることではなく、何でもいいから、自分が持っているものを誰かに贈与したいという「余計なおせっかい」をしたくなる傾向のことだと思うんです。人は人、私は私、他人におせっかいされたくないし、他人におせっかいもしたくないという人は、教えるのに向いていない。これはどんな領域でもそうじゃないかと思います。 

現代ビジネス

興味がわくと、それについて猛然と語りたくなる。道行く人の袖を引いて「話を聴いてください」と懇請するようになる。知的節度の問題ではなく、病気である。

内田樹 BLOG

 『まさに、私が想う先生!』と思ってしまった。「袖にすがっても言いたいことがある」とか、かなりヤバい(笑)

 noteでも延々と持論を展開している方や、何かを懇切丁寧に伝えている方を見かけて圧倒されることがある。いつも『何でここまで?』と不思議に思っていたけれど、内田先生の記事を読んでから「あー、この方は先生なんだなぁ…」と思うようになった。そして、理解出来る、出来ないは別としてその熱量に頭が下がる。

 やっぱり、私にとって先生とは、切なる思いで伝えることに心血を注ぐ『圧倒的な熱量を持つ愛すべき変人』としてエモい存在なのだ。


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