私の人生の軌跡 ① なぜ保育者を目指したのか☆☆
私は、生まれてから起こったすべての出来事や人との関わり、学びの積み重ねで今に至っていると考えている。
そして私をこの世の中に送り込んでくれた両親がいて、その両親にもまた父母がいて・・・
私という生命体は、多くの命の集合体でもあるような気がしている。
不思議なくらい、どの出会いがなくても、今の私がいない・・☆☆
それは、どの人間も同じだ。
命の営みとは不思議なものだ。
今後noteでは、不定期に「私の人生の軌跡」について振り返っていこうと思っている。
私の人生は、決して私一人が決めて作ってきたわけではなく、私を育て、共に生きてきた私の父母の存在も大きい。
今回は「私の人生の軌跡」の中でも、私の人生で大きな位置を持つ、なぜ「保育者」を目指したのか、「障碍児保育」や「福祉」に関わっていったのか、を語っていきたいと思う。
私はなぜ「保育者」それも「障碍児保育」を目指したのか。
私がなぜ、「保育者」を目指し、「障碍児保育」や「福祉」という道を選択したのかを語るには、母がなぜ「障碍児教育」を目指したのか、を語らないわけにはいかない。
私の両親は二人そろって教師だった。
私が生まれたころ、産前休暇はまだ4週間、たった一か月の私を私の祖母(母からすると義母)に預け仕事に戻ったそうだ。母として教師として悩みや辛さはあったが、私が健康であったのでなんとか日々を乗り越えていたようだ。
障碍を持って生まれた弟
私が4歳の時に弟が生まれた。弟は右足に障碍を持っていた。
内反足だった。
産婦人科ではその事実を伝えてくれなかったらしい。
母が弟のおむつを取り替えたときに足が極端に内側に曲がっていることに気が付いた。看護師に聞くと
「うちのせいではありませんよ。退院したら整形外科に連れて行ってください」
と冷たく言われたとのこと。
弟が生まれて12日目に母は弟を整形外科に連れて行った。
診察後、主治医に「連れてくるのが遅すぎた。生まれてすぐだったら楽に治せたのに。生まれて12日経ってしまったから12年間は普通に歩けない」と言われたそうだ。
その事実を知った時、母は相当落ち込んだ。でもやるしかない!
12日目から生まれたばかりの赤ちゃんのリハビリが始まった。
産休は4週間。母は弟のリハビリに懸命だった。
私は弟が心から大好きでとにかく可愛くて仕方なかった。
補装具を付けて歩いていてもそれもまた可愛かった。
愛くるしいその可愛さと私が弟を可愛がる姿に家族もだんだん
「障碍があっても彼は彼」と思うようになっていったようだ。
弟は母の懸命なリハビリもあり、左右の足の太さや長さが違うため、ぎこちなさはあるものの普通に歩けるようになった。
今でも覚えている。
弟が初めてスキップが出来るようになった日のことを・・・・
一般的には保育園・幼稚園の頃、子ども達は「スキップ」ができるようになる。
でも、弟がスキップができたのは(ぎこちなくではあったけど)弟が小学校4年生の時だった。
小学校4年生の弟が学校から家に帰ってきて、家族みんなに家の中をスキップをして走り回っていた光景が今でも目に浮かぶ・・。
そんな家族環境の中、私は、弟はもちろん、他の子ども達も大好きだったし小さい子のお世話が大好きな子どもに成長していった。
母の決意
話は少し戻って・・
母は産休中に「養護学校」「養護施設」に見学に行ったそうだ。
「こういう障碍を持った子ども達はどんな生活をしているのだろう・・」を知るために・・。
その時、もっともっと障碍が重い子ども達の存在を知り、教育の免除(就学免除)を受けている子ども達の存在を知ったそうだ。
就学免除とは、一言でいえば、障碍が重い子は、「学校」に行かなくてもいいということ・・・
教育を受ける権利がはく奪されていたのだ。
その現実を見て「この子たちのために生きていくことが私の使命かもしれない・・」と思ったそうだ。
母は復帰からすぐに「養護学校」で働く希望を出し続けた。
そして数年たち、母は念願かなって「養護学校」の先生になった。
私が小学校4年生のころには、私まで養護学校の運動会のお手伝いに駆り出された。
そして私も沢山の障碍児と出会わせてもらった。
脳性まひの生徒が母の指導で足の指を使ってオルガンを弾いていた。
筋ジストロフィーの生徒とは文通も始めた。
母にとっては教師として私を利用したところもあったかもしれないが、私にとっても人生を考える機会となっていった。
母は養護学校を卒業した子ども達をわが家によく招いていた。
脳性まひや障碍を持つ子どもの母親たちが母を頼って相談や話に来ていたのだ。
卒業してからも母と障碍児、そしてその親とのつながりは途絶えることがなかった。
そして、その思いをつなげて、将来母と父は「障碍者の作業所」を作ることになる。
私は、「きょうだい児」としての、寂しさや切なさや「私のことも見て!」という気持ちは消えることはなかったが、両親への思いや、弟への愛情はその環境の中で育っていったのだと思う。
私の決意と進学
そんな環境で育った私は、小学校を卒業するころには「保育者」になりたいと思っていた。
「教師」ではなく、世話をする側の仕事がしたかった。
そして「保育者」になるだけではなく、「福祉を学びたい」と思い、愛知にある日本福祉大学に進学した。
福祉大では、哲学、経済学、社会保障論、福祉政策、社会学、障碍児者教育、労働問題などを学び、進路を決めるときに「教師課程」ではなく「保母課程」を選んだ。「保母課程」では、子どもの発達、子どもや親を取り巻く状況、保育所問題、音楽、製作なども学んだ。
大学での学びは目から鱗のことばかり・・。刺激的な毎日だった。
そして就職!
就職活動の際には、市役所の職員へのお誘いもあった。
でも私は現場に出たい思いが強く、最初に就職したところは「障碍児施設」だった。
やはり私の原点は、弟との出会いであり、障碍児者、そしてその保護者との出会いだったのだと思う。
そして、結婚を契機に夜勤の仕事もある「障碍児施設」は退職し、保育園での仕事が始まった。
保育園でも「障碍児」とのかかわりは続けていた。
わが子が私の胎内に宿ってから、私の仕事へ復帰することへの葛藤は強かった。その思いについては、次回の記事で書こうと思う・・。
仕事に復帰してからは、途中、高齢者の「デイケア」の仕事も数年経験したが、やはり子ども達と関わる仕事に戻っていったし、特に障碍児やその保護者とのかかわりは私のベースとなっていた。
それは、ただ「仕事」としての「お世話」ではなく、そんな子どもたちが本当にかわいかったし、発達を家族と一緒に支えていくことも喜びだった。
もちろん、子ども達はみんな大好きだった。
子ども達の素敵な姿にいつも泣かされていた。
私が嬉しくても感動してもすぐに泣いてしまうので、ある子に「先生の目には水道があるみたいだね、すぐ水が出てくるね。早く水道止めたほうがいいよ」と言われたこともある。その子も今は一人の母親になっていて、今でもその話を楽しそうにしている。
保護者も保育者も支えられる社会に!
保育園の魅力は、その役割が「子どもの発達を支えること」と「保護者の働きを支えること」つまり「教育」であるとともに「福祉」であることだ。
保育園での保育者は、親の代わりに愛情をかけて丁寧に関わることが必要だし、働くママを徹底的に支えることが大切だと思う。
もちろん親の変わりはできない。
子どもの教育の第一義的な責任は保護者だ。
でも、保育時間はその保護者から託されているわけだから出来るだけ愛情を注ぎ、その子どもが笑顔で幸せであるように育てるという責任のある仕事だと思う。
だから簡単な保育の方法や「これをすればよい」などないし、一人一人と向き合う中で、今、目の前の子ども達の発達のために何が出来るのか、保護者の何を支えればよいのか、を自分自身で、あるいは職場の仲間と学びながら考えることが一番大切なこと・・。
目先のことではなく保育の本質を忘れてはいけないのだ。
保育の現場はまだまだ古い体質やしきたりがあるのも事実。
それぞれの園の歴史もあってなかなか専門学校や大学で学んだことが生かせないかもしれない。
学んだことと現実の乖離・・保育者だってどうしたらよいのかわからなくなることもあるだろう。
それぞれの園が学びが尊重される職場、新しい視点や意見を受け入れられる職場になるといいなと思っている。
さらに、保育者や教育者にも家族やわが子がいる。その家族との関わりが大事にされ、優先できる社会であってほしい。
わが子の行事に、保育者や教育者がしっかり休みを取ることを認め合える温かい環境であってほしい。
母の背中をみて育ち、さらに大学での学び、施設や保育所での経験、その歴史が今の私を作ってきた。
子ども達の保育、障碍児保育、保護者の支援、さらには働く保育者を支える活動を使命と思って、決して十分ではないが、私に出来る精一杯を誠実に歩んできたとは思っている。
だから、子ども達の親が幸せであること、保育の世界で、働く人たちが幸せであることが、子ども達の幸せになることが願いだったし、その思いで、退職の日まで保育の世界で生きていた。
現場からは離れたけれども、今でも、子ども達を見ると力が与えられるし、子どもは大好きだ。
最後に・・・
そんな私の人生の中に、私にとって大切な新しい家族との出会いがあった。
それが、今の夫との出会いであり、わが子との出会いだった。
新しい大切な家族との生活、家族への思い、そして仕事への思いについては、次回書きたいと思う。
今回、この記事を書き始めようと思ったのにはわけがある。
それは、naomiさんのこの記事を読んだから・・・・
子育てと仕事について書く前に、今回私の軌跡や仕事への思いを書いてみた。
次回は、子育てと仕事について書いてみたい。
今日も読んでくださり、ありがとうございました<m(__)m>
【書いた人】
江村恵子@終活ワーカー/ゆるふわおしゃべり相談所
「恵子」さんと呼んでください(*^-^*)
保育業界を退職して、
縁あって
『終活』に関する学びと広める活動をしています。
今は、群馬県の
『終活アドバイザーサークルの代表』を
担っています。
Noteでは、
『喜んで豊かに生きる素敵な人生』
について、
『終活』(人生の終わりのための準備)
について、
また趣味である畑仕事や旅行、
家族のこと・エッセイ
などを書いています。
終活ワーカー(終活のお手伝いをする人)
終活コーディネーター(リンクワーカー)として、
「素敵に生きる人生について」
オンライン、オフラインで
「ゆるふわに」お話し会や 座談会、雑談会
相談会などを開催しています。
Twitterもしています。
Twitterでは、
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