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『一陣』

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中編小説『一陣』の連載です。江戸末期、秩父の一揆を発端に烈しく悲しく生きる女性と、それを見つめる者たちのお話です。
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記事一覧

『一陣』第八章

『一陣』第八章

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 父の遠島を知らされてから、俺は考えることを辞めた。空は高く、空気は冷えてきた。ただ寝て、食べて、仕事をすることにしていた。心がどこかへ消えてしまったような、締まりのない気分でいるのに、不思議と仕事ぶりは褒められた。いま俺にできることは、これしかないと、体が必死になっているのかもしれない。何かやることがあるのはいいことだ。それに集中していれば、頭の奥など死んだままで問題ない。い

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『一陣』第七章

『一陣』第七章

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 蕎麦屋に入ってきたその女は、やけに目を引く容姿だった。取り立てて美人だというわけではない。いや、涼やかな細面の顔は確かに整っていたが、彼女を言い表すとき一番に出てくる言葉は、その鋭い空気だろう。子を守る熊のように刺々しく、緊迫した、必死な空気を纏っていた。紋治郎は昼間から酒をかっくらいながら、女から目を離せずにいた。その女が近づいて来たので、無意識下で緊張した。まるで賊と立ち

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『一陣』第六章

『一陣』第六章

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 「豊松、手紙だ。」
子供頭から渡されたそれを受け取るとき、俺は刀を振り下ろされるような心地がした。
「読んできても、いいですか。」
「おい、行かせてやれ。」
子供頭は渋い顔したが、庄助がそう声をかけてくれたので、豊松は店の裏に回り、周囲に人がいないことを確認して、そうっと開いた。短い手紙だった。兄からだった。

「父、遠島に処されたし。他はみな息災なり。」

暫く眺めたが

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『一陣』第五章

『一陣』第五章

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第五章

 上尾宿から中山道をずっと、後ろをついてくる女がいる。いや、江戸を目指すならこの街道しかないのだから、「ついてくる」という言い方は正しくない。ただ一定の歩幅があってしまっているのか、つかず離れずずっと背後にいるのだ。まだ若い尼僧はいささか気まずい心持になっていた。常ならば向こうから軽い挨拶をしてきたり、旅は道連れ、なにがなし話に花が咲くようになり説法の皮をかぶった旅話

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『一陣』第四章

『一陣』第四章

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第四章

 豊五郎が捕まった、そう聞いたのはあれから一月以上経ってからの事だった。やっぱり、と、思った。父は皆に慕われていた、きっと皆の分まで憤るし、皆の分まで声を上げる。そういう人だからだ。だから尊敬していた。でも危うくも思っていた。死罪になるのだろうか。悪いのは俺たちを先に苦しめたお上の方なのに、そんな彼らに裁かれるのか。一揆は成功したと聞いているし、なにやら他の地も呼応す

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『一陣』第三章

『一陣』第三章

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第三章

 中山道、熊谷宿の近くにある茶屋は繁盛していた。老夫婦が遅くにもうけた娘が店先に立つようになってからは、殊更に。娘は十六になる。名をお通という。お通は行き交う旅人を見るのが好きだ。自分はここを出ることはないが、立ち寄る幾人もの旅人を見ていると、共に津々浦々を旅しているような心地になれる。彼らの喉を自分が出す一杯の茶が潤す。自分の愛想が彼らを癒す。お通は自分の容姿が頭一

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『一陣』第二章

『一陣』第二章

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第二章


 「豊松、秩父の一揆のことは聞いてるかい。」
俺はその言葉で郷里の騒乱を知った。おかみさんは優しい人で、家族の安否を尋ねてやろうかと聞いてくれたが、俺はなぜか断ってしまった。たぶん、父は中心人物だ。そう直感した。豊五郎、豊五郎と皆に慕われ呼びかけられる声がこだました。俺はそんな父が誇らしかったが、年毎に上がる年貢に怒りをあらわにする父を見ていると、なぜだが胸中が騒

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『一陣』第一部第一章

『一陣』第一部第一章

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第一章

 膝を抱えた手が震える。じっとりと汗がにじむが、震えが止まらない。今が昼なのか夜なのか、夏なのか冬なのか、暑いのか寒いのか、何もわからない。全てがあまりにも生々しく、かえって夢の中のようだった。
怒号は止まない。女中はみなあいつらに組した。父は殺されたのだろうか。母は、妹は。父は望んで大庄屋になったわけではない。祖父もそうだった。だが祖父と父との違いは、大庄屋が時によ

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一陣

一陣

序章

‌ 金魚が死んだ夏を思い出した。夏祭りで貰って来た金魚は、あらかじめ弱らせてあったのか、数日中に鉢の水面へ横倒しに浮いてしまうようになった。時折、弱弱しくひれを動かして水中へ戻ろうとするが、それが叶うことはなかった。僕は早朝からそれを眺めていて、なんとか元気にならないか、また揺らめく綺麗なひれを、愛らしい紅いひれを見せてくれないかと期待していたが、段段と時間を気にし始めていた。学校へ行かな

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