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みわこ
2024年7月22日 12:54
(前回はこちら) 父の遠島を知らされてから、俺は考えることを辞めた。空は高く、空気は冷えてきた。ただ寝て、食べて、仕事をすることにしていた。心がどこかへ消えてしまったような、締まりのない気分でいるのに、不思議と仕事ぶりは褒められた。いま俺にできることは、これしかないと、体が必死になっているのかもしれない。何かやることがあるのはいいことだ。それに集中していれば、頭の奥など死んだままで問題ない。い
2024年7月1日 17:03
(前回はこちら) 蕎麦屋に入ってきたその女は、やけに目を引く容姿だった。取り立てて美人だというわけではない。いや、涼やかな細面の顔は確かに整っていたが、彼女を言い表すとき一番に出てくる言葉は、その鋭い空気だろう。子を守る熊のように刺々しく、緊迫した、必死な空気を纏っていた。紋治郎は昼間から酒をかっくらいながら、女から目を離せずにいた。その女が近づいて来たので、無意識下で緊張した。まるで賊と立ち
2024年6月15日 11:14
(前回はこちら) 「豊松、手紙だ。」子供頭から渡されたそれを受け取るとき、俺は刀を振り下ろされるような心地がした。「読んできても、いいですか。」「おい、行かせてやれ。」子供頭は渋い顔したが、庄助がそう声をかけてくれたので、豊松は店の裏に回り、周囲に人がいないことを確認して、そうっと開いた。短い手紙だった。兄からだった。 「父、遠島に処されたし。他はみな息災なり。」 暫く眺めたが
2024年4月10日 06:43
(前回はこちら)第五章 上尾宿から中山道をずっと、後ろをついてくる女がいる。いや、江戸を目指すならこの街道しかないのだから、「ついてくる」という言い方は正しくない。ただ一定の歩幅があってしまっているのか、つかず離れずずっと背後にいるのだ。まだ若い尼僧はいささか気まずい心持になっていた。常ならば向こうから軽い挨拶をしてきたり、旅は道連れ、なにがなし話に花が咲くようになり説法の皮をかぶった旅話
2024年3月16日 07:48
(前回はこちら)第四章 豊五郎が捕まった、そう聞いたのはあれから一月以上経ってからの事だった。やっぱり、と、思った。父は皆に慕われていた、きっと皆の分まで憤るし、皆の分まで声を上げる。そういう人だからだ。だから尊敬していた。でも危うくも思っていた。死罪になるのだろうか。悪いのは俺たちを先に苦しめたお上の方なのに、そんな彼らに裁かれるのか。一揆は成功したと聞いているし、なにやら他の地も呼応す
2024年3月12日 05:57
(前回はこちら)第三章 中山道、熊谷宿の近くにある茶屋は繁盛していた。老夫婦が遅くにもうけた娘が店先に立つようになってからは、殊更に。娘は十六になる。名をお通という。お通は行き交う旅人を見るのが好きだ。自分はここを出ることはないが、立ち寄る幾人もの旅人を見ていると、共に津々浦々を旅しているような心地になれる。彼らの喉を自分が出す一杯の茶が潤す。自分の愛想が彼らを癒す。お通は自分の容姿が頭一
2024年2月16日 06:27
(前回はこちら)第二章 「豊松、秩父の一揆のことは聞いてるかい。」俺はその言葉で郷里の騒乱を知った。おかみさんは優しい人で、家族の安否を尋ねてやろうかと聞いてくれたが、俺はなぜか断ってしまった。たぶん、父は中心人物だ。そう直感した。豊五郎、豊五郎と皆に慕われ呼びかけられる声がこだました。俺はそんな父が誇らしかったが、年毎に上がる年貢に怒りをあらわにする父を見ていると、なぜだが胸中が騒
2024年2月14日 09:53
(前回はこちら)第一章 膝を抱えた手が震える。じっとりと汗がにじむが、震えが止まらない。今が昼なのか夜なのか、夏なのか冬なのか、暑いのか寒いのか、何もわからない。全てがあまりにも生々しく、かえって夢の中のようだった。怒号は止まない。女中はみなあいつらに組した。父は殺されたのだろうか。母は、妹は。父は望んで大庄屋になったわけではない。祖父もそうだった。だが祖父と父との違いは、大庄屋が時によ
2024年2月13日 06:38
序章 金魚が死んだ夏を思い出した。夏祭りで貰って来た金魚は、あらかじめ弱らせてあったのか、数日中に鉢の水面へ横倒しに浮いてしまうようになった。時折、弱弱しくひれを動かして水中へ戻ろうとするが、それが叶うことはなかった。僕は早朝からそれを眺めていて、なんとか元気にならないか、また揺らめく綺麗なひれを、愛らしい紅いひれを見せてくれないかと期待していたが、段段と時間を気にし始めていた。学校へ行かな