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大学受験~上京篇|三浦自伝⑦

(写真:ボート部時代の三浦・右)

2004年、ついに三浦も受験生となった。英語が得意だったこともあり、行動範囲を海外に広げてたくさんの新しいことを知りたいと外国語学部を受験することにした。

地元の南山大学が近くて評判も良かったが、母と姉の母校だったため、なんとなく同じところは避けた。「どうせなら東京の有名な大学に行こう」という単純な理由で東京外国語大学を受験することに決めた。

勉強嫌いで英語以外の成績はパッとしない三浦だったので周りには心配されたが、皆の予想に反し無事勉強、スペイン語専攻に合格した。

しかし母からは「まさか受かるとは。お金はないから奨学金借りて一人で頑張りなさいよ」と言われ、18にして借金を背負うことに。

「この奨学金はまるで学生ローンだ。もっと若者に優しくないと困るぜ」などと悪態をつきながら、大学のある府中市に移り住んだ。

ちなみにもしこの時落ちていたら近所のパン屋さんで働く予定になっていたが(母が勝手に決めた)、それはそれでいいなと思っていた。

入学すると早速いろいろなサークル勧誘を受け、その末に100年以上の歴史があるボート部に入部した。水の上を滑るような感覚が気持ち良く、一気にのめりこんだ。

ただ、練習場所が大学から一時間以上も離れた埼玉県の戸田公園だったので通うのは大変。

練習は週11回あり、戸田の合宿所で生活し、1限の授業があれば4時半起きで練習、体が浮くほど満員の埼京線で通学し、授業後すぐ合宿所に戻り練習、風呂、飯、10時半就寝というサイクルだった。

当時、成績は留年ギリギリまで落ち込み、友人からは「死んだ魚の目をしている」と評判だった。

最終的に部内での仲間割れがきっかけで、残念ながら2年生の夏に退部してしまった。その後日本ボート協会広報委員会の機関誌「月刊ローイング」の記者となったことで、幸いボートとの縁は今でも続いている。

一方その夏、人生最大の失恋という試練が三浦を待ち受けているのだった。

(つづく)

※三浦編集長 Vol.7(2015年10月発行)より転載