さよならは約束だろうか
【強制送還】国外退去処分が下されると五年間は入国許可が下りない。
レストランで店長をしていたころ、僕はひとりの中国籍男性をアルバイト採用した。なんでも語学留学で日本に来ていて、「中国にいる両親に負担はかけられない。アルバイトをすることで、何とか少しでも学費の足しにしたい」と、話してくれた。
僕自身こういう人情的な生い立ちに弱く、話し途中にもかかわらず履歴書に採用の判を押していた。もちろん日本語は上手に話せるし、中国人にありがちなグイグイと迫る感じはなく、物腰の柔らかい好青年の彼を断る理由など全くなかったのだ。
彼の名前は「辛」さんといい、アルバイトのみんなは「シンさん」と呼んですぐに仲良くなっていった。はにかんで、ちょっと照れたような表情が彼の持ち味であり、それは同時に彼の優しい人柄も感じさせてくれた。
シンさんは早速キッチンで働くことになった。
──当時、アルバイトの中に慶応大学へ通う才女がいた。
ユウコという。
小柄な彼女は決して美人の部類に入る容姿ではなかった。うりざね顔で、ちょっとうるさそうな学級委員風なところもあり……ただ、彼女の名誉のために記しておけば、きつく尖った黒縁の眼鏡を外したとき、視力が悪い人特有の潤んだ瞳がキレイだったことを僕だけは知っている。
彼女は頭の回転が取り分け速く、行動力も抜群で、キッチンで働く年上の男子学生などものともせずにズバズバと意見を言い放っていた。
嫌がられながらも規律を重んじることを善しとし、40名ほどいるアルバイトの中で、彼女はひときわ異彩を放っていた。
女性のもつ柔らかさ、おだやかさ、母性など微塵もみせることはなく、テキパキと指示をだし、同じ女性アルバイトからは頼りにされ、男子アルバイトからは「おぉ怖っ」などと恐れられていた。
そんな彼女が恋をした。
慶応大学に通い、第二外国語で中国語を専攻していた彼女。とにかく優秀で、簡単な中国語の会話はもとより書くこともできたのだから、好意を抱くのは当然だったのかもしれない。
なんとなく察していた僕は、お節介ながら無駄に気を利かしてシンさんと彼女を同じシフトに調整した。
仕事中、シンさんが日本語で困ると彼女がサポートしてあげることが定番になっていた。
僕がシンさんに「野菜の在庫を調べといて!」と頼むと、彼は一生懸命に野菜の数をメモして、でも、シンさんが手にしている紙切れには
「キユリ2本・ナース5本……」
それを見た彼女は「シンさんそれ看護師さんだよ!」なんて言って僕らは大笑いしたものだった。
そんなとき(けっこう頻繁に言葉のズレ事件は起こった)シンさんは、いつもはにかんだ笑顔で照れていて、その優しそうな笑顔は確実に彼女のハートを撃ちぬいていたのだろう。
行動力があり物怖じしない彼女。ただそれが、いざ自分の恋心だと知るとなかなか切り出せないようだった。見ているこっちは歯痒いばかりである。明らかに彼女の瞳はハートマークになっていて、それに気づいているであろうシンさんは照れ笑いばかり。それでもシンさんは彼女のことをいつの間にか「ユウちゃん」と呼ぶようになっていた。
僕はコトあるごとに「もうキスしたのか?」と、今であればセクハラで訴えられそうな愚問を彼女に投げつけて、毎回「店長!」と、怒られていた。僕の心配をよそに、彼女とシンさんは、恋人同士というのには遠く及ばないプラトニック中のプラトニックな関係で大満足のようだった。
三ヶ月くらい経った頃……
彼女からいよいよ「デートに行く!」と報告を受けた。なんでもディズニーランドを計画しているという。何故か僕がドキドキした。
結果、行ったのは池袋の水族館であった。まあいろいろ事情があったのだろう。それはそれは何度も何度も、繰り返し繰り返し楽しかった話を、僕は彼女から散々に聞かされた。
──彼女はキスぐらいしたのだろうか。シンさんは、彼女の潤んだ瞳を見ることができたのだろうか。
シンさんに水族館のことを聞くと「楽しかったです」と、はにかんだ笑顔でかわされてしまった。
そのとき、今までは「照れているのかな?」って思っていたシンさんの笑顔が、なんだか憂いを含んだ笑顔に見えたことが、ちょっとだけ気がかりだったけれど。
ある日、昼のアルバイトにシンさんが来なかった。
こんなことは過去に一度もなかったし、遅刻したこともなかったのに。
原因はわからない。何度か電話したけれど、土曜日で忙しかったこともありそのまま放置してしまった。最終的に、夜になっても連絡が着くことはなく、シンさんの携帯電話(当時はガラケー)は、電源が切られているのか何なのか、電波が届くことも、店の電話が鳴ることも、とうとうなかったのだ。
所詮中国人など、こんなものか……などと、僕はひどくがっかりした。
その翌日、バイトに入っていない彼女がわざわざ店に来て事の顛末を話してくれた。
シンさんは強制捜査にあって不法滞在が発覚、自宅でそのまま現行犯逮捕。入国管理局に連れていかれたというのだ。
シンさんは、同じ中国人の友人とアパートを借りて暮らしていたけれど、どうもその一緒に暮らしていた中国人の素行があまり良くなかったようなのだ。
近隣住民によく思われていない中国人……住民の通報により当局は水面下で捜査を進めていた。
──その日は突然やって来る。
いよいよアパートの周囲を固められたシンさんは捜査員にパスポートの提示を求められ、ビザが切れた状態で滞在していたことが発覚してしまう。そしてそのまま連行されてしまったのだ。
そういえばお店でアルバイト採用するとき、ビザの提示は求めなかった。これは本当に迂闊だった。
彼女は近隣住民にひとりで聞き込みをして周り、事の顛末を知った。そしてその足でわざわざ港区にある入国管理局まで行ったという。ただ、面会はできなかったそう。僕の見た限り、腫れた目の彼女は一睡もできなかったのだろう。最悪の結果である。
入国管理局からいつ中国へ強制送還されるかは誰にもわからない。必要な手続きなどが終わればそのまま出国をする。そのことは本人から事前に連絡はできないし(携帯などすべて一時預かりされている)まずもってそこは留置場なのだ。
彼女は、学校の授業を極力休んでシンさんに会いに行った。会いに行っても彼女とシンさんの間には透明な強化プラスチックがあるのだけれど。
差し入れはかなり自由が利き、コーラが大好きなシンさんのため、彼女は行くたびにペットボトルの差し入れをしていた。そうして、短い接見時間を最大限利用してたくさんの話をした。
そう、いつ終わりが来るともわからないのに。
涙をみせることは絶対だめだと、彼女は悲しい気持ちを抑えて終始明るく過ごすことに努めていた。
毎日のようにシンさんに会って、何を話したか報告する彼女をどうして不憫に思うことができるだろう。見る限り彼女は楽しそうで、僕も話を聞きながら涙が滲むほど大笑いした。
でも、長くは続かなかった。
──その日、とうとう彼女は泣きだしてしまったのだ。
僕に携帯電話を差しだしてくる。そこにはシンさんからの留守番電話が入っていて、それは紛れもなく空港からの電話だった。
彼女は、その日どうしても抜けられない授業があって、だいぶ経った休み時間にその留守番電話に気づいたと……僕が初めてみた彼女の狼狽する姿。しっかりと見開いた大きな瞳から、大粒の涙が幾度もこぼれだす。
そっと耳に近づけて、再生した──
ユウちゃん
ユウちゃん
大好きなユウちゃん
もう会えなくなるけど
ユウちゃん
ユウちゃん
ありがとう
もうれんらく、できないけど
また日本に行くよ
ユウちゃん
さよなら
ユウちゃん
ユウ −−−−−−
消え入りそうな声で、シンさんの告白が入っていた。途切れ途切れのメッセージ……それは途中で時間がきてしまい、プツっと切れてしまっていた。
シンさんは一度帰郷して、ちゃんとビザを発行してもらったあと正規な状態で入国しようと決心した…その矢先の出来事だったと──
──そう彼女が教えてくれた。そういうものである。
──その後、徐々に日常を取り戻し、ゆるやかな日々は淡々と過ぎ、時がきて彼女は大学を卒業した。そしてアルバイトを辞めていった。
その後、何年かしてこのお店は閉めてしまうことになった。……もう、あと10日ほどで閉店するというその間際、彼女はお店に寄ってくれた。
久しぶりに会った彼女は、あの携帯電話を見せてくれた。もう使うことはないけれど、お金は払い続けているという。
留守番電話サービスは解約するとその情報がすべて失われてしまうのだ。
彼女が携帯電話を解約するとき、時は動きだすのだろう。
ただ、30歳をとうに越えた彼女はまだ、結婚をしていない。
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