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マンガノート② 実験マンガ 萩尾望都『柳の木』

ラスト近くまで、ほぼ同じ場面、同じ構図がずっと続く一種の実験マンガ。
しかも、全20ページ中、吹き出しがあるのはラストの3ページのみ。   

萩尾望都の短編マンガでは、『半神』に次ぐ傑作だと思います。

川のほとりの柳の木の下に一人たたずむ白い傘をさし、夏服を着た女性。

彼女は、土手の上の道を行き交う人々を見上げています。
そして、その視線は、道を通る一人の子どもの姿にいつも注がれているのです。

季節は移り変わり、時の経過と共に柳の木や土手の様子も少しずつ変化し、土手の上を歩く幼かった子どもも成長していきます。

それでも、柳の木の下から土手を見上げている女性の様子だけは、全く変わりがありません。

未読であれば、この辺でピンと来る方もいらっしゃるのでは?
勘のよい人は、「柳の木の下」というシチュエーションだけで、「お察し」かもしれませんね。

これ以上書くと本当にネタバレになるのでやめておきますが、サイレント映画のように台詞がほとんどない分、いかようにも深読みできる仕掛けになっています。

例えば、 土手の下と上がそれぞれ何を表しているかとか 、画面上部がが意図的に切り取られているため、顔が分からない人物がいる意味とか、家族の先頭を歩く父親がなぜ、急ぎ足なのかとか。 etc…

ほぼ同じ構図の絵を僅か十数ページ連ねるだけで、人の想いをここまで深く表現できるマンガ家は、多分萩尾望都の他にはいないでしょう。
ライバルだった同じ昭和24年組の竹宮恵子が、「天才には勝てない。」と筆を折ってしまったことよく分かります。

と、ここまで賛辞を連ねてきましたが、次からは、ないものねだりです。

『柳の木』は『半神』と並ぶ大変非凡な作品ですが、冒頭で「『半神』に次ぐ」と書いたのは、ラストの3ページに渡る吹き出しが果たして必要だったのか疑問に思うからです。

それまでの静謐な展開に比べて、最後の吹き出しによる説明が、どうしても過剰すぎると感じでしまうのは私だけでしょうか。           あそこまで一切の言葉なしで通してきたのですから、欲を言えば、最後までその実験をやり通してほしかったと。

『半神』の最終ページの簡潔で美しく、効果的なモノローグは絶対になくてはならないものであったのに対して、『柳の木』では、ラストの過剰な吹き出しが、逆に作品全体にマイナスの効果を及ぼしてしまっているのではないかと感じるのです。

一切の台詞なしでも、例えば最後に息子が母親に深々とお辞儀をする一コマを入れれば、息子の母に対する思いも十分表現できたはずです。     (結局ネタバレしてしまいましたが、あくまで私の個人的解釈です。)                                  

ラストの過剰な説明さえなければ、『柳の木』は、『半神』に比肩する大傑作になり得た作品だったと思うのですが、如何でしょうか。

『柳の木』は、「ここではないどこか・シリーズ」第1巻『山へ行く』に収録されています。

軽い感じのSF・ファンタジー短編が並んでいるので気楽に読んでいたら、最後の『柳の木』でガツンと一発でノックアウトされてしまいました。読者を油断させておいて、ラストに これをもってくる編集がなかなか絶妙で感心しました。

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