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映画ノート① 川島雄三の神業が堪能できる傑作『洲崎パラダイス 赤信号』

学生時代に一度観て、凡作の烙印を押したまま長らく忘れていた『洲崎パラダイス 赤信号』 。                         意外にも近年、再評価されているらしいので、ダメ元でもう一度観てみた。見終わった後、びっくり仰天して茫然自失。              何とものすごい傑作だったではないか!

再見して、若い頃の自分の目がいかに節穴だったか思い知らされた。
当時は、映画をテーマ性で評価する傾向が強かったので、ダメな男女の腐れ縁の話なんてはなから受け付けられなかったのだろう。
成瀬己喜男の『浮雲』なんか、当時はその代表格だったし。

気になったので、「キネマ旬報」1956年のベストテンを調べてみた。   そうしたら、これまたびっくり。『洲崎パラダイス 赤信号』はベストテンどころか、なんと28位! 

因みに、ベストワンは今井正の『真昼の暗黒』、2位が吉村公三郎の『夜の河』、3位は記録映画『カラコルム』(これは未見)、4位 豊田四郎「猫と庄造と二人のをんな」、5位 市川崑「ビルマの竪琴」、6位 小津安二郎「早春」、7位 山本薩夫「台風騒動記」(これも未見)、8位 成瀬己喜男「流れる」、9位 木下恵介「太陽とバラ」、10位 小林正樹「あなた買います」というラインアップ。

当時係争中だった「八海事件」の冤罪性を訴えて大反響を巻き起こし、裁判の行方にも影響を与えたと言われる社会派映画『真昼の暗黒』は別格として、2位以下のどこに入ってきてもおかしくない出来栄えであるし、百歩譲っても、超豪華キャストで芸者置屋の女性たちの愛憎と確執を描いた群像劇「流れる」に劣っているとは到底思えないのだが。

双葉十三郎、飯島正、岩崎昶、瓜生忠夫など、当時の錚々たる映画評論家諸氏の目も私と同じく節穴で、観る目がなかったのだと知って少し安心したのだが、川島雄三が傑作「幕末太陽傳」(ベストテン4位)を撮るのは翌年のこと。                                この映画の評価が不当に低いのは、それまで平凡なプログラム・ピクチャを量産する器用な職人監督とみなされていたからかもしれない。

さて、『洲崎パラダイス 赤信号』、描かれているのは、社会の底辺でもがくその日暮らしのダメな男女の愛憎劇。                 『真昼の暗黒』のような社会性や進歩性などの類は、薬にしたくても見当たらないのだが、重喜劇と銘打っている割にはあまり喜劇っぽくなく、むしろシリアスドラマという印象のほうが強い。

物語は大きな橋の欄干に寄りかかり、暗い顔で川面を見つめる男女の描写から始まる。
二人の所持金は、タバコを買ったおつりを加えてもたったの60円。
しわくちゃの百円札で煙草を買うシーンだけで、二人の困窮ぶりを表現する手際が鮮やかである。
仕事もなく、今日泊まる場所の当てもない。

定職のない義治(三橋達也)は連れ合いの蔦枝(新玉三千代)に甲斐性なしと攻められ、ふてくされて半ば自暴自棄になっている。
すぐに「死ぬ、死ぬ!」と口走る事の他には、タバコをふかすしか能のない気の弱いマザコン男で、心理的には蔦枝に頼り切っているように見える。

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一方の蔦枝も勝ち気でやり手ではあるものの手に職はなく、以前の遊郭に戻るか、男に頼って生きていくしかない。

このふたり、婚姻関係ではないらしい。

言い争いの末、蔦枝は義治を置き去りにして丁度やってきたバスにさっさと乗り込む。
置いて行かれまいと、慌てふためいてバスに飛び乗る義治。

ふたりがバスを降りたのは、 巨大なアーチに「パラダイス」のネオンが煌々と輝く蔦枝の古巣、州崎遊郭の入口。
再びアーチをくぐる勇気の出ない蔦枝は、門前の飲み屋の主人お徳(轟夕起子)に住み込みで働かせてくれるよう、強引に頼み込む。

転がり込んだ蔦枝の前に、折よく金回りのいい電気屋の店主落合(河津清三郎)が現れる。
客を手玉にとるのはお手のもの。                   義春に愛想をつかしていた蔦枝は、落合にうまく取り入ってまんまと囲われることに。

一方、蕎麦屋の住み込み店員になった義治は、蔦枝のことが気になって出前持ちの仕事にも全く身が入らない。

蕎麦屋の若い店員玉子(芦川いずみ)は、そんな義治の事を気にかけ、親身になって世話をやく。
ふとした出来心から、義治は店の売り上げ金に手を付けてしまうが、玉子の好意的な計らいで事なきを得る。

こうして4人の人物紹介が終わった後、四角関係?(正確には二重の三角関係)で後半の物語が展開するのだが、監督自身が「軽喜劇」ならぬ「重喜劇」と呼んでいるように、愛憎劇と言ってもこの4人に関しては、ドロドロの修羅場とは縁がない。

蔦枝が落合に囲われたことを知った義治は、蔦枝の行方を捜して秋葉原の電気街を必死に探し回るが見つからず、空腹と疲労で行き倒れになったところを道路工事の日雇い労働者たちに助けられる。             汗水流して真っ当に働く彼らの優しさに接した義治は我に返るのだが、この辺りの間接表現によるモンモンタージュが絶妙。

憑きものが落ちたように真人間になった義治は、蔦枝の事など忘れたように出前持ちの仕事に精を出し始める。

囲われる身になってはみたものの、義治のことが気になりだした蔦枝は、事情を知るお徳の話から義治と玉子の関係を疑い始める。         嫉妬の炎を燃やした蔦枝は玉子と対決するため、お徳が止めるのも聞かず、眦をつり上げて蕎麦屋に向って駆け出す。

鼻息荒く蕎麦屋に乗り込んだものの、当の玉子は深い事情は知らないのであっけらかんとしたもの。                      蔦枝に対抗するような素振りなど、みじんもない。

玉子が義治とは一回り以上も年が離れた小娘であり、義治が相手にするはずもないと拍子抜けした蔦枝は、義治の帰りも待たずに店を後にする。
蔦枝の嫉妬の炎を冷ますかのように、この間、ずっと場違いな 童謡「かわいい魚屋さん」が、蕎麦屋のラジオから流れている。

蔦江の行方を捜す義春の彷徨と嫉妬に駆られて蕎麦屋に乗り込む蔦江の行動は類比的な対の関係になっており、すれ違ってはいるもののお互いが相手に対して強い執着心を持っていることが分かる。

また、ふたりが居酒屋を出て行ってからここまでの展開は非常にテンポが良く、対比と反復の技法が非常に大きな効果をあげており、 脚本(井手俊郎他)
及び監督の腕の冴えが感じられる。

この4人に比べると、むしろ、深刻なのは居酒屋のお徳とその亭主の方。
亭主の傳七は、遊郭の女と駆け落ちしたまま4年間も行方不明だったが、女と別れてふらりと店に舞戻ってくる。

お徳に帰参を許されて前非を悔いた 傳七は、「人間、やっぱり堅気でなくちゃいけないね。」と義治に何気なく話しかけるのだが、その言葉は、心を入れ替えた義治にも実感されたはず。

夜の街に突然、パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響く。
何が起きたかと押し寄せた人々の視線の先に、むしろをかけられた傳七の変わり果てた姿が横たわっている。
人知れず亭主の帰還を待ちわびていたお徳の幸せも束の間、傳七は捨てた女と刃傷沙汰になり、あっけなく殺されてしまったのだ。

凡庸な監督なら、分かりやすくするため事件の前に伏線を置く所だが、代わりに倒叙法を用いることで、事件の悲劇性をより際立たせたのはさすがである。

昼間話したばかりの傳七の死体を見つめる義治、その表情から彼がこの事件にただならぬ衝撃を受けたことが推察される。
「社会のはぐれ者は所詮、堅気には戻れない」とまでは言わぬが、それに
近い感慨を義治に与えたかもしれない。

交番の取調室で泣き崩れるお徳を心配そうに見守る義治。
そこへ蔦枝が駆けつけて来る。                    普通ならすぐさま中に入って義春に駆け寄るところだが、蔦江は戸口で立ち止まったまま義治を見つめるだけ。                  ふたりの位置関係からは、この時点で、両者の間にまだ微妙な心理的距離やわだかまりがあることが感じられる。

久しぶりの再会、無言で互いの顔をじっと見つめ合う義治と蔦江。    目と表情だけで義治への思いを訴えかける蔦江。            ふたりのバストショットを交互に積み重ねることで、お互いへの深い思いが次第に凝縮されていく。

先に目を逸らしたのは義治。
暫く下を向いていた義治だったが、ゆっくりと顔を上げて再び強い眼差しで蔦枝を見つめ返す。

この瞬間、義治が蔦枝の思いを受け止め、寄りを戻す決心をしたことが見てとれる。
この間、時間にして、たった十数秒に過ぎないのだが、画面の緊迫した雰囲気が伝わり、実際より長い時間に感じられる。 

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                                  普通の監督ならお互いへの思いを伝えるのに明示的な台詞を用いる所だが、川島監督はこれを一切の台詞なしに映像のみで表現する。        この短いシーンだけで、蔦枝の浮気を許し、彼女の思いを受け止めて再びやり直そうと決意する義治の心の動きを表現したのは、まさに神業、天才の天才たる所以である。

監督の難しい注文に応えた新玉三千代の演技は、もう絶品としか言いようがない名演で、この演技を引き出しただけでも川島雄三の凄さが分かろうというもの。

映画の前半は義治が蔦枝を追い、後半は蔦枝が義治が追う。
この場面は、蔦枝と義治の心理的力関係が逆転するまさに分水嶺であった。

州崎パラダイスのアーチへと続く橋の上に佇み、ぼんやりと川面を見つめる玉子。
空虚感や喪失感を湛えたうつろな表情から、やはり玉子は義治に好意以上のものを寄せていたことが伺える。

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ここまで書いてきたように、序盤から終盤にかけて名シーンが山のように並んでいるのだが、実はこの映画の本当のクライマックスはラストの90秒間にある。

物語はループして振り出しに戻る。

途方に暮れてプロローグと同じ橋の上から川面を見下ろすふたり。    蕎麦屋をやめた義治とパトロンの落合と別れて来た蔦枝。
仕事も金も今晩泊まる所もないのは、最初と同じ。           違いといえば、蔦枝が着ている落合に買ってもらった新しい着物だけ。  いや、違いはもう一つだけある。ここにはプロローグにあったようなふたりの間の微妙な距離感がない。(冒頭の写真を参照のこと)

表面的には、結局、全て元の木阿弥。
一回りして同じ場所に戻ってきても、ふたりには何の進歩も成長もないように見える。

努力は全て水の泡、ご破算になって元の状態に帰っただけ。
直前の空虚感を漂わせた玉子が川面を見つめるショットと共に人間の業の深さや無常感を湛えた名シーンである。

そう言えばこの映画、重要なシーンで繰り返し橋が出てくるのだが。

一時はやる気を出して一生懸命仕事に打ち込んだのに、なぜか蕎麦屋を辞めてしまった義治。
せっかく金づるを掴んだというのに、落合が借りてくれたアパートを飛び出して来た蔦枝。

ここからラストシーンまでの2分間に重要なシーンが連続する。     カメラは、ふたりの足もとにパンする。                蔦枝の履いた下駄が義治の皮靴の前に来ると、義治の皮靴は僅かに後ずさる。  

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「あんたの行くとこ付いて行くから。」という台詞と共に、この描写によって勝ち気だった蔦江が、今は義治に依存していることが理解される。   このシーンは明らかにプロローグとの対比で、より強く相手を必要としているのが、今は蔦枝の側であることが暗示されている。

暫く離れて暮らしてみて、義治と別れられない自分の思いに気付いた蔦枝。
浮気をしたのに、今度は積極的に縋り付いてくる蔦枝の態度に一瞬引く気配を見せた義治だったが、これから先は自分がリードしていく覚悟を決める。

ふたりの心理を皮靴と下駄の描写によって語らせているのが非常に斬新で、間接表現の極北とも言えるほどの名演出である。

両者の関係は腐れ縁ではあるが、月並みな言い方でをすればコインの表裏のようなもの。互いにもたれ合い、相手なしでは自分が自分ではなくなってしまう。
お互いが相手のことを想い、必要とするから一緒にいる。
それはある意味、普遍的な人間の愛の形でもある。

蔦枝が落合と別れたのも、義治が蕎麦屋を辞めたのも、二人が離ればなれでは生きて行けないことを悟ったからに他ならない。
それは、交番のシーンで無言で互いの顔を見つめ合う、まるでサイレント映画のような心理描写によって暗示されていたことだ。

遅まきながらもその事に気付いたのは、 傍から見ればささやかではあるが、義治と蔦枝にとっては唯一大きな進歩と呼べるもの。
お徳の夫傳七が別れた情婦に殺された事件は、ふたりがお互いの愛に気付くひとつのきっかけになったのかもしれない。

そして、一見蛇足に見えなくもないが、実は深い意味が隠されている最後のバスでの道行きシーン。
互いの絆を確かめ合った蔦枝と義治は、これから先は一緒に住み込める働き口を探して、あてどなく彷徨い続けていくのだろう。

どうして、そんなことが言えるのかって?
そう考えるのは、ふたりの内面の変化が映像を通して、はっきり間接表現されているから。                           それは、プロローグとエピローグに出で来るバスの乗車シーンを対比すれば一目瞭然である。

プロローグでは、逃げるようにバスに乗った蔦枝の後を、置いていかれそうになった義治があたふたと追いかけ、走り始めたバスに危うく飛び乗る。
要するに同じバスに乗ってはいてもふたりの心はばらばらなのであり、行き着いた先で本当に離ればなれになってしまう。

対して、エピローグのほうはどうだろう。
こちらは最初とは違って、ふたりはしっかり手をつなぎ合い、発車間際のバスに向かって元気よく走り出す。
勿論、蔦枝の手を引くのは義治で、今度は一緒にバスに乗り込む。

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このロングショットによって、義治と蔦枝が「愛」という名の強い絆で結ばれ、貧しくはあってもふたりで助け合い、手を取り合って生きていくであろう未来が間接的に表現される。

本当はやるせないラストシーンのはずなのに、陽気な音楽と共にやけに盛り上がって終わるのも、少しだけ成長したふたりの前に開けているのが、これから高度経済成長を迎えようとする、日本がまだ「若くて」、努力すれば明るい明日が待っていると思える時代だったからだろうか。



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