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教養として知っておきたい「編集」の基本①:そもそも編集ってなに?

はじめまして。編集家の松永光弘と申します。

ぼくは15年あまりにわたって、日本を代表する広告制作者やデザイナーといったクリエイターと呼ばれる人たちの本を数多くつくってきました。そして、そこで得た知見や編集者としての気づきをもとに、ここ数年は出版にとらわれることなく活動の領域を大きく広げて、編集家として「世の中に編集を生かす」をテーマに企業のブランディングや広報、学校づくり、イベントの企画、講演・司会、パーソナルセッションなど、日々、さまざまな「モノやコトの編集」に取り組んでいます。

このnoteでは、そんな「さまざまな編集」に取り組むなかで見えてきた「編集という営みのエッセンス」を紹介しつつ、仕事や生活のなかでの「編集のつかいかた」について考えていきたいと思っています。

みなさん、よろしくお願いいたします。

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■「編集=編集者の仕事」じゃない。

さて、そもそもの話。「編集」って、なんでしょうか? 

こう問いかけると、多くの人たちから、つぎのような答えが返ってきます。

「本や雑誌をつくること」
 
いわゆる出版の編集者がやっていること、です。

でも、じつはこれは正しい認識とはいえません。というのも、「編集」は、実際にはもっといろんなところでつかわれているからです。映像の制作にも「編集」はありますし、ウェブサービスの会員登録画面などにも、プロフィールを「編集」する、と書かれていたりする。スマホのアプリにだって「編集」というメニューがある。けっして出版だけのものではありません。

巷では「出版の編集者がやっていること=編集」のように語られることがすごく多いのですが、かならずしもそうとはいえない。実際のところは「出版の編集者の仕事のなかにも“編集”が含まれている」というくらいが妥当かもしれません。「編集」は本来、特定ジャンルの専門スキルではなく、さまざまなところで生かすことができる普遍的な営みなのです。

じゃあ、それらに共通する「編集」とは、いったいなんなのか。

いろんな「モノやコトの編集」に取り組むなかで見えてきたのは、つぎの定義です。

編集とは、組み合わせのなかで価値や意味を引き出すこと。

具体的にみてみましょう。

ここに1枚の写真があります。2人の女性がグラスを手に笑顔を浮かべている日常のワンシーンです。

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この写真のとなりに、もう1枚、写真を並べてみる。すると……

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1枚めの写真には「プライベートのひととき」という意味が生まれてきます。

では、こんな写真を並べてみると、どうなるでしょうか。

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今度は1枚めの写真に「恵まれた人たち」という意味が出てきます(ついでにちょっと憎らしく思えてきたりも……)。

1枚めの写真はずっと同じものです。なんの細工もしていません。でも、となりに並べる写真が変わるだけで、全然意味がちがってくる。

これが「編集」の基本形です。

モノを組み合わせることで、モノから価値や意味を引き出していく。場合によっては、ちょっと変わった組み合わせをつくることで、そのモノがもつ意味を変えてしまう

「編集」とは、そういう営みなのです。

※ここでいう「組み合わせ」は「ひもづける」に近い意味合い、です。なお「組み合わせ」によって価値や意味が引き出されるメカニズムについては、追って別の記事で書いていこうと思っています。

■「編集」とは「価値や意味」を変える技術。

もちろん「編集」は、いまのような写真同士の組み合わせだけにあてはまるものではありません。本づくりであれ、映像制作であれ、プロフィール記入であれ、「編集」と呼ばれる作業は、ほぼすべてこの基本原理がもとになっています。

映像の「編集」では、まさにいまの2枚の写真のように、シーンやカットの組み合わせによって意味が引き出され、それを積み重ねています。

たとえば、「緊迫した表情で向き合う男女」のシーンのあとに「血がついたナイフ」のカットが入ると、ちょっとただごとではなくなる。

でも、「緊迫した表情で向き合う男女」のシーンのあとに「リングケースに入ったダイヤの指輪」のカットが入ると「プロポーズ」の意味になります。組み合わせによって、引き出される意味がちがってくるわけです。

文章だってそうです。

「さっきの山田部長、すごい笑顔だったね」

という文があったとして、そのあとにどんな文がつづくか(組み合わさるか)によって、引き出される意味はちがってきます。

仮に、

「さっきの山田部長、すごい笑顔だったね。
 きのう、子どもが生まれたらしいよ」

とつづけば、子どもが生まれてよろこんでいる山田部長の様子が伝わってくるでしょう。でも、

「さっきの山田部長、すごい笑顔だったね。
 先週、奥さんに逃げられたんだって」

とつづくと、山田部長の笑顔は、かなりヤバい精神状態の裏返し、という意味になってしまいます。

実際に、出版の編集者が文章を「編集」するときは、こんなふうに文と文の関係を吟味しながら、書き手の意図がきちんと引き出されるよう、組み合わせに調整を加えたり、文の修正を依頼したりしています(その人が「組み合わせを扱っている」と意識してやっているかどうかは別として)。それが「文章における編集」です。短い文章も、長い文章も、文の組み合わせの積み重ねでできていますから……。

「編集」とは、こんなふうにして組み合わせのなかで、価値や意味を引き出していく営みです。

あるいは、組み合わせをつかって、モノやコトから新しい価値や意味を見つけ出していく技術でもあります。

それが世の中でどう生かされているのか。

わかりやすいところでいえば、時折、週刊誌などで見かける、著名人の「なんでもないひとこと」を「とんでもないひとこと」に変えるマジック(?)なども、たしかに組み合わせによる(組み合わせを変えることによる)「編集の力」ですが……、ぼくはもっとポジティブに、「編集」はいろんなモノやコトの可能性を広げる営みだと思っています。

たとえば、「コーヒー」はふつう「飲み物」「眠気覚まし」などと受けとめられます。これは暗黙のうちに「飲食」「眠気」と組み合わせて考えているから出てくる解釈です。

でも、そこで「子どもの好物」と組み合わせて考えることができれば、「コーヒー」に「大人の楽しみ」という意味を見いだすことができますし、「話し下手」と組み合わせて考えることができれば「会話の沈黙を埋めてくれるもの」という意味を見いだすことができたりもする。

「編集」的に考えると、モノやコトのとらえかたがゆたかになり、ありふれているはずの世の中の見えかたがちがってくるのです(編集者に柔軟でユニークなものの見方をする人が多い理由もここにあると思います)。

そういう意味で、まったく新しいものが生まれにくくなった、といわれ、すでにあるモノやコトをどう再解釈するかが問われる現代は、まさに「編集の時代」といえるかもしれません。


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※拙著『「アタマのやわらかさ」の原理。クリエイティブな人たちはじつは編集している』では、ここで書いたような「編集」が、クリエイティブな発想のベースにも生かされていることを説いています。ご興味があれば、ぜひお読みください。



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